第三者視点のノーマンとオットー。

その男は、毎朝九時半きっかりにやって来る。だからマリーは時計を見なくても、ベルの音で今が何時なのか把握することができた。  朝六時から昼十二時まで立ち続ける、それがマリーに与えられた仕事だった。他の従業員は朝のシフトをいやがるが、彼女は苦ではなかった。早起きは嫌いじゃないし、毎朝店を満たす焼きたてのパンの匂いを嗅がないと、一日を始めることができない。 「おはよう」 「おはようございます! 今朝もいつものドーナツですね」 「ああ、頼むよ」  毎朝九時半にやって来る老紳士は、必ずチョコレートのかかったオールドファッションドーナツをふたつと、カスタードの詰まったフィルドドーナツをひとつ、シナモンシュガーをまぶしたドーナツをひとつ、それから温かいコーヒーを注文する。老人の華奢な体に、ドーナツが四つも入るとは思わない。マリーは思い切って尋ねたことがある。 「これ、全部あなたが食べるんですか?」 「まさか。友人と分けるんだよ」  突然の質問にも、老紳士は柔らかい笑顔で答えた。まさに「老紳士」という言葉がぴったりだろう。身につけているものは決して高価ではないが、それでも彼の優雅な佇まいを損なうことはない。知的な瞳、落ち着いた声。きっとどこかの大学教授、あるいは会社の元役員か何かだろうとマリーは推測する。少なくとも、彼女の友人やボーイフレンドとはかけ離れたタイプである。  老紳士はセーターのときもあれば、フード付きのパーカーを着ているときもあった。フォーマルなジャケットを着こなしていることもあった。そのどれも緑を基調としていて、穏やかな雰囲気の彼によく合っていた。  ドーナツの入った紙袋とカップを渡すと、老紳士は微笑んで礼を言った。彼が去ったあと、マリーはレジの前で大きく伸びをする。今日もいつもどおり、素晴らしい朝だ。

ある日の朝、いつものように店にやって来た男は、なぜかそわそわと落ち着かない様子だった。珍しいこともあるものだと思いつつ、マリーはいつもと同じようにドーナツを準備し、コーヒーをカップに注いだ。 「ちょっと聞きたいことがあるんだが」  マリーから紙袋とカップを受け取ったあと、老紳士は意を決したように口を開いた。 「この店は、確かカフェスペースがあったね」 「ええ。小さいですけど十人くらいなら入れますよ」 「できれば朝、客がいない時間帯ってないかな」  マリーはようやく合点がいった。どうやら老紳士は、静かな店内でゆっくりコーヒーとドーナツを楽しみたいらしい。 「でしたら八時から九時の間がいいですよ。七時はオフィス街のひとたちで混むし、九時をすぎると遅めの朝食のためにみんなやって来ます。いつものあなたみたいにね。だから八時から九時の間がおすすめです。運がよければ、カフェスペースを独り占めできますよ」  いたずらっぽくそう言うと、老紳士は微笑んだ。 「八時から九時、ね。ありがとう。実は友人を連れていきたくて」 「いつもドーナツを分け合う友人?」 「ああ」  老紳士の目が、一瞬悲しそうに曇った。 「友人はひとの多い場所が苦手でね。なかなか部屋から出ないんだ。それでも夜、一緒に外に出て散歩していたんだけど。たまには朝の空気を吸うのもいいだろう」 「素敵ですね」  マリーは心の底からそう思った。老紳士がどれだけ友人を想っているかがわかる。彼は名前も知らない、客のひとりでしかないが、それでもマリーは、彼らが素晴らしい朝を迎えられるよう、あらゆる手を尽くしたいと思った。 「いつでもご友人を連れてきてください。テーブルをぴかぴかに磨いてお待ちしています」 「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。……ああ、そうだ」  老紳士は思い出したように付け足した。 「友人は、なんというか、とてもユニークな見た目をしてるんだ。始めはびっくりするかもしれないけど、とても優しいから。安心してほしい」

その日は雨だった。  昨夜から続く雨で地面はぬかるんでおり、そのせいか客足もまばらだった。  老紳士の姿が見えたとき、マリーは思わず時計を見た。八時一五分。いつもより一時間一五分も早い。不思議に思ったが、理由はすぐにわかった。彼女が老紳士に言ったのだ。カフェスペースを使うなら八時から九時の間がよい、と。幸運なことに、客はひとりもいない。レジの前に立っているのもマリーだけだ。キッチンの連中は滅多なことがない限り表に出ない。老紳士と友人は、思う存分コーヒーとドーナツを楽しむことができるだろう。  ベルが鳴った。 「やあ」  老紳士はいつものように柔らかい笑みを浮かべた。 「素晴らしいタイミングですよ」 「雨だからもしやと思ったけど、誰もいないようでよかった」  老紳士のうしろから男がぬうっと現れた。  大きな影だった。小柄な老紳士と並んでいるためか、余計に大きさが際立って見える。黒コートを羽織り、太陽が出ていないのになぜかサングラスをかけている。空間をいきなり圧迫されたような、息苦しい気分になる。恰幅のよい人間なんて他にも大勢見てきたのに、なぜだろう。この男からは異様な雰囲気がする。コートの下、何かが垂れ下がっている。  マリーは悲鳴を飲み込んだ。ここで声を上げなかった自分を褒めてやりたい。コートの下に金属の爪が見える。しかもひとつではない。四つ。確かに四つの爪を、男はコートの下に隠し持っていた。  爪は男の腰辺りから伸びているらしい。彼の腰には銀色のコルセットのようなものが巻かれている。勿論、マリーの祖母が腰痛のためにつけている、布でできたコルセットとはまったく異なる。もっと頑丈で、冷たく、少なくとも腰痛軽減のためにつけているわけではなさそうだ。男の体が異常に大きく見えるのは、本来の体格もあるだろうが、何よりこの四つの爪が、コートを広げているらしい。 「彼女がいつもコーヒーを入れてくれるんだよ」  老紳士は場違いなほど和やかな口調でそう言った。 「この間言った僕の友人。この店のドーナツがいちばんおいしいって毎朝言っているよ」  男はマリーに向かって会釈した。金属の爪がぶつかって、かちかちと音を立てる。 「いつものドーナツと、コーヒーをふたつ」 「……はい」  マリーは震える足でレジの横にあるコーヒーマシーンへ向かった。なるべくテーブルに行く回数を減らしたい。コーヒーがカップに注がれる。その間にドーナツを取る。チョコレートのかかったオールドファッションドーナツをふたつ。キッチンへ行って助けを呼ぶべきか。カスタードの詰まったフィルドドーナツをひとつ。でも老紳士は優しい友人だと言っていた。それにふたりの幸せな朝を邪魔するなんて。シナモンシュガーをまぶしたドーナツをひとつ。でも彼が騙してたのだとしたら? 本当は危険な男で、この店を襲いに来たのかもしれない。いや、しかし椅子に座り、外を見ながら談笑する彼らは、とてもじゃないが強盗には見えない。どこにでもいる、年老いたふたりの男だ。コートの下から伸びる四つの爪さえ見えなければ。  マリーはトレーに四つのドーナツとふたつのカップを乗せ、テーブルに向かった。とにかく早くこれを置いて離れたい。礼を言う老紳士に向かって曖昧に微笑み、彼女はレジへと急いだ。  急いでいるときに限って、いつもできていることがうまくいかない。マリーは足を滑らせた。確かに、雨のせいで床は濡れていたけれど、よりによってこんなときに転ばなくてもよいではないか。衝撃を覚悟し、目を閉じる。  しかし、冷たい床の感触は、いつまでも経ってもこない。何かがマリーの体を受け止めている。  マリーは今度こそ小さく悲鳴を上げた。金属の爪のひとつが、彼女の体に巻きつき、床との激突を防いでくれた。ここで彼女はようやく爪の全貌を見た。コートの下に収まっていたので気づかなかったが、思っていたよりも長い。金属が関節のように連なっている。ならばこれは、「爪」というより「腕」に近いのかもしれない。男は六本の腕を持っている。 「大丈夫かい」  老紳士は、まるでマリーが床に倒れなかったことも、怪我がないことも、すべてわかっていたと言いたげに、にっこりと笑った。 「彼らはとても優しいんだよ。だから大丈夫だって言っただろう」

被験者番号四七二三五。男性。年齢は六十代後半。

聞いていたよりもずっと大人しい。今日も机に座ってずっと絵を書いていた。ひどいできだけど。  たまに罵詈雑言を浴びせてくるが、そんなものは無視すればいい。彼の発する言葉に意味はない。何かを伝えようとする意思はない。ただひとを傷つけるためのものだ。  頻度は減っているが、それでも二ヶ月に一回はこの状態になるらしい。つまり本来の人格でないものが姿を現す。そいつは手当たりしだいにものを破壊し、ひとを傷つける。恐ろしい存在だ。  そんなものが、この小さな老人の体に抑え込まれているとは。  それは狂気を感染させる。前の担当者は精神を病んでやめた。その前の担当者も、ここに来る前にいた施設の職員たちも。  だから今回は、極端にそれと接する機会を減らしている。診断は一日二回、モニター越しで状況を見る。ガラス張りの部屋の中で、それはつまらなそうにあくびをした。  本来であればこんな役目など引き受けたくはなかった。しかし、頼んできた相手があのオクタビアス博士であれば仕方がない。  死んだと聞いたときはとてもショックだった。オクタビアス博士の講演を一度でも聞いたことがある者なら、あるいは著作を読んだ者なら、彼が行ったあらゆることとその結果について、信じることができなかっただろう。思慮深く聡明な人物であることは、彼の本や講義に触れるだけで十分理解できる。私利私欲のためではなく、人類の発展のために力を注いだ人物だ。  実験の失敗、さらに妻の死で気が狂い、街を混乱させ、最期は川に沈んだ。そんな彼が今、目の前にいる。 「担当が変わったと聞いたが」 「ええ、私です」  オクタビアス博士は、黒板の前に立っていたときとだいぶ姿が違った。背中から四本の腕が伸びている。なんとも奇妙だが、彼のひととなりを知っていれば、さして驚異に感じない。 「それが例の……」  オクタビアス博士の背後に男が立っていた。小柄で、押せば簡単に倒れてしまいそうだ。 「私の友人だ」  友人。博士は確かにこの男を「友人」と呼んだ。 「もう二日もこのままだ。いい加減戻ってほしいんだが」 「ひどいよ、ハニー」  男が口を開いた。耳に粘りついて残るような声だ。 「せっかく出てきたんだから、もう少し遊ばせてくれよ」 「お前が皿を全滅させたり、食料を食い尽くそうとしなければ、ここに連れてくることもなかったんだ」  オクタビアス博士の目には疲れが滲んでいる。 「あまりこいつの声を聞くな。正気を失う」  男は唾を飛ばしながら笑った。

診断の結果はすべて各研究機関に送られる。極めて稀な症例であるため、重要なサンプルになるのだ。だからこの醜悪な男は、今日まで生き長らえてきた。被験者となる代わりに、生活を保証される。  国とふたりの死人の間で、どのような密約が交わされたのかはわからない。知る必要性も感じない。  男は今日もこっちを見て笑っている。  彼が関わったとされる過去の事件を調べたが、どれもひどいものだった。すべてもうひとつの人格が引き起こしたことになっているが。  本当に?  こいつこそが「本体」じゃないのか。  男がこちらに向かって手を降っていた。口角が限界まで引き上げられている。  オクタビアス博士の言うとおり、そばにいるだけで気が狂いそうだ。

「悪さはしなかったか」 「ええ、大人しいものでしたよ」  オクタビアス博士は画用紙に絵を描いている男に視線を向けた。 「友人も絵の才能はないが、やつもひどいものだな」  ガラスの扉が開く。男が顔を上げた。握っていたクレヨンを投げ捨て、椅子を倒し、こちらに走ってくる。増強剤の効果は消えているはずだ。あれはただの人間、骨ばった老人に過ぎない。なのに目が離せなくなる。やつの爪が首の皮膚を切り裂き、鮮血が噴き出すイメージが頭に浮かぶ。あれは捕食者だ。危険な存在だ。男が地面を蹴る。薄い体が宙に浮かぶ。  そして男は、オクタビアス博士に抱きついた。 「遅い!」 「お前がやらかした諸々の片付けに追われていたんだよ」 「腹が減った」 「それは僕も同意見だ……。こらこら、アームを噛まないでくれ」  金属の爪が男の服を掴み、ゆっくりと地面に下ろした。 「帰ろう」  荷物を取りに行くよう命じると、やつは素直に部屋を出た。本当に帰りたかったのかもしれない。 「正直、驚きました」  殺されるかと思って。  しかし、オクタビアス博士はこの言葉を別の意味で捉えたらしく、そっと口角を上げる。 「ああやって大人しいと、まだかわいげがある」  博士は恍惚と呟いた。 「素直で純粋で、まるで天使だ」 「天使……」  オクタビアス博士には、あれが羽の生えた美しい天使に見えるのだろうか。  あれは悪魔だ。ひとを狂気へ堕とす悪魔。  博士はすでにあれの狂気に飲み込まれたのだろうか。もしくは、もとから狂っていたのか。だからあれといても博士は平気なのか。  それとも、狂っているのは我々なのだろうか。