名前のあるモブが出ます。

ゼベルの若き皇太子殿下は、その気さくな性格と類まれなる美貌で国民から愛されている。しかし、彼の魅力はそれだけではない。戦場を駆ける姿はまさに「獅子」、逆立つ赤髪はたてがみのように燃え、戦士たちを奮い立たせる。陸の生物など見たことはないが、話を聞く限りでは、きっと彼のように美しいのだろう。初陣をはたしたのはほんの数ヶ月前のことだが、王子という立場に甘えることなく、数々の武功を上げている。兵士たちの手本となるべき人物だ。  ジャンは幼い頃より皇太子ネレウスと共に鍛錬を積んだ、いわば親友であった。一緒に戦場を渡り、その勇姿をこの目で見てきた。立場上は王子と部下だが、お互い気の置けない関係だった。ネレウスは少々、身分や立場を無視してずかずかと相手の領域に踏み込んでくるところがある。それに気圧される者もいるが、ジャンは皇太子の魅力のひとつだと考えていた。  さて、そんな「ゼベルの至宝」ネレウス皇太子殿下に新しい友人ができた。

「またアトランティスに行くのか」  ジャンの言葉に、ネレウスは頷いた。 「ああ」  ということは、またあいつに会うことになるのか。ジャンは内心ため息をつく。  その友人とは、数年前から関係が続いていた。ちょうどアトランナ女王が即位してからだ。ネレウスはアトランティスを訪れるたびにそいつと会っている。というより、そいつと会うためにアトランティスを訪れているのかもしれない。  そいつ、とは目の前にいる髪の長い男のことである。  ジャンは始め、女かと思った。長い髪はもちろん、男は小柄で、押せば倒れそうなほど細かった。 「お待ちしておりました、皇太子殿下。それに大尉殿も、お久しぶりです」  男がゆっくりと顔を上げる。大きな青い瞳には深淵が広がり、口元には常に薄い笑みが浮かんでいる。端正と称される顔立ちだが、ジャンはとにかく気味が悪くて仕方なかった。  ヌイディス・バルコ。それが男の名だった。この若さにして、すでに軍の作戦担当を任されている。切れ者という噂だが、それだけでなく武道にも優れ、特に槍術においてはこの国で並ぶ者はいないとされるほどだった。彼の槍を止められるのは、恐らく女王アトランナただひとりである。彼女がバルコの「主人」だから止められるのではない。彼女がバルコと互角の、あるいはそれ以上の腕を持つから止められるのである。 「久しいな。元気そうで何よりだ」 「お心遣い痛み入ります」 「オーバックスや女王陛下も変わりないか」 「つつがなく」  ネレウスと言葉を交わしながら、ジャンへの視線も忘れない。この抜け目のなさ、武人として優れていても、この男は本質的に政治家タイプだ。そしてジャンは、この手の人間がきらいだった。  非公式の訪問ということもあり、護衛の兵の姿はなく、アトランティスが用意した人員もバルコだけだった。 「些か警備が心許ないのではないか、参謀殿。それとも貴国は、隣国の皇太子が死のうがどうなろうが関係ないと?」 「そういうわけではございませんが」  バルコは困ったように微笑む。この軍人然としない、薄弱な態度も、ジャンは気に入らなかった。 「俺が女王陛下に頼んだんだ。動きづらくなるから大所帯にしないでくれ、と。バルコがいれば安心だろう。むしろ大事な臣下を貸してくれた陛下に、心遣い感謝すると伝えてくれ」  ネレウスはにっと笑って、未だ釈然としない顔をしたジャンのほうを見る。 「それにお前もいるしな!」  こんな顔をされれば、いやでも引き下がるしかない。ジャンは渋々非礼を侘びた。 「いいえ。大尉殿のご心配はもっともです。殿下の御身は必ず私がお守りいたしましょう」  用意してきたかのように流れるバルコの言葉に、思わず顔を顰める。やっぱりこの男、きらいだ。

アトランティスは技術大国だった。建物はみな高く、ひとや乗り物が多く行き交う。石造り建物が主なゼベルとはまったく見える景色が違う。いつ来ても、ジャンは目を奪われる。  魚人王国もアトランティスと同様、技術と知恵で成り立つ国家だが、あちらの建物は極限までデザインを削ぎ落としたシンプルなものが多く、街も整然としている。悪くいえば寒々しい。それに比べて、アトランティスのなんと華やかなことか。  これで例の男がいなければどんなによいか。  ネレウスと言葉を交わしながら、ちらりとうしろを見ると、バルコはすました顔で着いてきている。 「そういえば、旧市街の開発の話が持ち上がっているとオーバックスから聞いたが?」 「まだ決定ではありません。あちらは貧困層の居住地になっていまして、アトランナ様が反対されているのです」 「ゼベルにも古い建物が密集している地域があるんだ。何か参考になると思ったが。そうだろう?」 「は?」  突然話しかけられ、ジャンは慌てて顔を上げた。 「だから旧市街の話だ。お前も聞いていただろう」 「殿下は街の整備のお話をされていたのです」 「あーはいはい。建物の話か」  バルコは助け舟を出したつもりだろうが、それが余計に気に食わず、棘のある返事となってしまう。 「それよりも他にやることがあるんじゃないか。聞いたか? 西の海にトレンチの群を見たらしい」 「まさか」  バルコは目を見開く。 「彼らは海溝深くにしかいないはず」 「本当だ。西に出ていたうちの遠征団が見たらしい」  ネレウスの言葉に後押しされるように、ジャンは続ける。 「水温の上昇とも関連があるんじゃないかと聞いた。地上のやつらを野放しにしてきたせいで、こちらが害を被っている」  バルコは黙り込んだ。 「実は、オーバックスともその話になったんだ。今すぐにとは言わないが、地上に対して何か策を打つべきだと」  その場にジャンもいた。現アトランティス国王であるオーバックスとネレウスは幼き日より共に過ごした友人であり、常に皇太子のそばにいたジャンも、自然と親しい仲になっていった。おとなしく内向的に見えて、いざというときの決断力や思い切りのよさを好ましく思っていた。 「父上たちには聞き入れてもらえなかったが」 「……殿下はどうお考えなんです?」 「俺もある程度の準備は必要だと思っている」  そうですか、とバルコは俯いた。彼は先王の時代から城に仕えていると聞いた。つまり、それこそネレウスとジャンのような関係を、アトランナと結んでいる可能性がある。そしてアトランナは、対外的な軍事戦略には消極的な人物として知られている。  バルコは眉をひそめるのも、なんらおかしいことではない。 「そういうお前はどう思うんだ」  ジャンはあえてバルコにそう問いかけた。青い目がじっとこちらを覗き込む。まるで深海。トレンチたちでさえ恐れるのではないかと思うほどの深い青。 「私は王と女王の決定に従うだけです」  おおよそ予想通りの、満点の答えだ。ここで「不正解」は、ときとして「死」に繋がる。この男は常に正解を選び、生き残ってきたのだろう。コバンザメのようにつき纏い、追従するだけの男。 「ただし」  バルコはにっこりと微笑み、付け加える。 「余計なことをしなければ」

ゼベルへの報告を終え、戻ってくると、ふたりは何やら話し込んでいた。それが政治に関係することではないのは明らかだった。ネレウスは笑いながら、しきりに何か言っている。それに応えるように、バルコも笑う。先程まで見せていたような、愛想のよい笑みではない。大きく口を開けて、子供のように笑っている。 「おい」  ジャンの声に、ふたりは顔を上げた。 「ゼベルへの報告はすんだ。予定どおりの時間に迎えが来ると」 「ご苦労。では王宮に少し寄って行こうか」  バルコはすっかりいつものすまし顔に戻っている。もうジャンが何をしても、先程のような顔は見せないだろう。  友人。初めて会ったとき、ネレウスには紹介された。もちろん、ネレウスには他にも友人がいる。ジャンがそうであるし、気さくで明るい皇太子の周りにはいつも誰かがいる。他国にだって友人はいる。  だが、バルコは今まで見てきたどれにも当てはまらない。友人と呼ぶには遠すぎる気もするし、近すぎる気もする。お互い何も知らないのに、決定的な何かを共有しているような、そんな危うさがある。  ふいに、バルコが振り返った。 「ネレウス様」

「ネレウス殿」  男は恭しく頭を下げる。 「お待ちしておりました。それに元帥殿も、お久しぶりです」  長い髪には白い毛が目立ち、皺も増えたが、慇懃な態度は相変わらずだった。 「久しいな、参謀殿。そなたが前線から消えていたせいで、連合軍は負けたのだともっぱらの噂だが」 「ご冗談を」  バルコはそう言って微笑んだ。相変わらずひとを食ったような反応に、ジャンは青筋を立てる。だからここへは来たくなかったのだ。 「この馬鹿は窓のある部屋に勾留中されていた。我々の敗退を、さぞ胸のすく思いで見ていただろうよ」  ネレウスの言葉にも、バルコは微笑むばかりだった。 「勾留? 一国の参謀がなんでまた」 「お前の武勇伝を話してやれ」 「そう大したものではありませんが、謀が王の耳に入り、囚われておりました」  こともなげに言うバルコに唖然とする。よくて処刑か、最悪拷問にかけられていたかもしれないのに、彼は涼しい顔で顛末を話した。 「結局お前の思い描いていたとおりというわけか」 「そんなことありませんよ。炎のリングと監禁はさすがに想定外でした」 「あのままずっと閉じ込められておれば、減らず口を聞かずにすんだものを」  ネレウスの悪態もどこ吹く風と聞き流す。他人の運命も、自らの命でさえ、この男には駒のひとつなのだろう。「結局お前の思い描いていたとおり」という言葉が事実なら、ヌイディス・バルコという男は末恐ろしく、そして到底容認できない人間だった。 「そういえば、アーサー王からこちらを預かっておりました」  バルコは赤い実をふたつ差し出した。こぶし大のそれは、艷やかに輝いている。 「陸の食べ物です」 「珊瑚のような色をしている」 「でも食べ物だそうですよ」  ネレウスは実のひとつを手に取った。 「毒を入れていないという証拠は?」  ジャンは鋭く問いかけた。 「毒がないにしても、土煙で汚れた陸の食い物など、陛下に何かあったらどうするつもりだ」  バルコはふわりと浮き上がった。浮力が働くにしても、彼は本当に体重を感じさせない。ネレウスの腕を掴み、手に持った赤い実に歯を立てる。  しゃく、と音がした。  そして白い喉が上下する。バルコはジャンのほうを向いて、にっこりと笑った。 「そのようなことはいたしません」  つまり、毒がないことを自らの命をもって証明してみせた。  ネレウスのほうは、一口齧られたことは特に気にせず、赤い実にかぶりつく。 「甘いな」 「そうでしょう」 「水分が多すぎる気もするが、まあまあだな。お前も食べるか」  すっと差し出されたそれには傷ひとつなく、鮮やかな色をしている。 「……いらん」 「そうか。ではメラへの土産にしよう。あの子も陸で食べたものがおいしかったと言っていたな」 「なんでしょうか」 「赤くてひらひらしていると言っていたような……」  ふたりのうしろ姿を見ながら、ジャンの頭の中である記憶が呼び起こされていた。  自らの命でさえ駒のひとつにすぎない。あのときもそうだった。

「ネレウス様」  振り返ったバルコはネレウスの体に覆いかぶさった。ひゅん、と耳元で音がする。 「何事だ!」 「敵襲です」  さすがにバルコは早かった。やはり彼も兵士である。ネレウスを咄嗟に庇うと、腰に刺した剣を抜く。  ジャンもすかさず銃を握った。皇太子の護衛を任されるだけあって、腕には自信がある。しかし、街中で銃を撃てば、市民に当たる可能性がある。  あちこちから悲鳴が聞こえた。それなのに、未だ襲撃者の姿は見えない。 「こちらへ」  バルコがネレウスの手を引いた。 「みんなを助けないと!」 「狙いは恐らくあなたです、殿下。ここにいては市民が巻き添えとなってしまう」  バルコの言葉に、ネレウスはショックを受けたようだった。まさか自分の存在がこの事態を引き起こしたなど、考えてもいなかったのだろう。青白い顔で引かれるまま、先を進む。 「とにかく人気のないところへ避難しましょう」 「心当たりは?」 「今向かっています」  バルコは冷静だった。何より準備がよすぎる。すべてわかっていたのではないかと思うほど。 「旧市街へ。ひとの来ない場所があります」  表の美しい街並みとは異なり、旧市街がまさに瓦礫の山だった。建物は崩れ、光さえ届かない。王宮は目の前なのに、まったく違う世界が広がっている。 「どうしてこの場所を知っている」  ジャンの目に疑惑の色が浮かんでいる。こいつは信用できないと、頭の中で声がする。  バルコは決して視線を外さなかった。 「私はここで育ったので」  ジャンは舌打ちした。余計なことを聞いた。本当に、余計なことを聞いてしまった。 「だから、ここのことはよく知っています」  バルコはネレウスの前に膝をついた。 「ネレウス様」  その声はしっとりと柔らかく耳に響いた。こいつはこんなに優しい声を出せるのかと、ジャンは思った。 「申し訳ございませんでした」 「お前のせいじゃない」 「この道をまっすぐ行くと、王宮の地下へ続く入口があります。衛兵に身分を明かせば、入れてくれるはずです」 「お前はどうする?」  ジャンの問いに、バルコは微笑んで答えた。 「私がやつらを引きつけておきます」 「でも……」  不安そうなネレウスに、バルコは何事か耳打ちした。それが何かは、ここからだとわからない。  ネレウスが頷くと、バルコはもう一度微笑み、向こうへ泳いでいってしまった。 「行こう」  先程までの不安げな表情は消え、ネレウスはしっかりとした足取りで泳ぎ始めた。  地下からやって来た客人を、衛兵たちは最初訝しんでいたが、ネレウスの赤い髪を見ると、あっさり中へ入れてくれた。  話はすでに伝えられていたらしく、水と食べ物が置かれた部屋に通される。しばらく休めということだろう。極度の緊張状態にあったためか、ふたりとも死んだように眠った。

「おふたりとも、ご無事で何よりでした。すでに賊の始末はつけております。殿下も安心してお過ごしください」  アトランナは凛とした声でそう言った。 「ゼベルにも連絡はしました。お父上がとても心配されていましたよ」 「それで、バルコはどうした」 「おふたりがお休みになっている間に戻ってきました。今は傷の治療を」 「直接会って礼を言いたいんだが」  女王は目を伏せた。続く言葉は、恐らくこちらが望むものではない。 「彼はまだ、ひとと会える状態ではありません」  それがどういうことなのか、ネレウスもすぐに理解したらしい。美しい相貌から、一切の表情が消える。彼は小さく「そうですか」と呟くと、女王の前に膝をついた。 「お心遣い感謝します。参謀殿にも、よく礼をお伝えください」  踵を返すネレウスを追って、ジャンは廊下へ出た。  広い背中からは何も感じない。 「ネレウス……」  あいつは大丈夫だ、お前が無事でよかった、もうここに来るのはやめよう。言葉は泡のように浮かぶのに、声にならない。  突然、ネレウスがくるりと振り返った。 「ひどい一日だったな」  それはジャンのよく知る皇太子の姿だった。鮮やかな赤髪が霞むほど眩しく笑う。 「お前も疲れただろう。早くゼベルへ帰ろう」 「……そうだな」  いつもどおり、だからこそジャンは不安だった。  この城のどこかに、あの男はいる。やっぱりあいつはきらいだ。

そしてひと月もしないうちに、ジャンは再びアトランティスを訪れていた。  目の前にはあの男が、いつものように涼しい顔で立っている。 「お待ちしておりました」  赤髪が舞う。待ちきれないとでも言うように、男のもとへ。  ネレウスがこれ以上悲しまずにすむという喜びと、またあの忌々しい顔を見なければならないのかという怒りで、ジャンは奥歯を噛んだ。

「毒が入っていると言われて腹を立てたんだろうか」 「何が」 「毒はないと証明するために、わざわざ食う必要があるか? だから意趣返しのつもりだろうかと」  ネレウスはつまらなさそうに鼻を鳴らした。 「単に説明が面倒だったのだろう」 「そうか」 「お前は昔からバルコをきらっていたからな」 「やはりわかるか」 「何十年一緒にいると思ってる」  件の男は城の者と何やら話していて、こちらの話など聞こえてないだろう。 「あれのことは考えなくていい。お前の言葉など気にしていない」  ネレウスはなぜか愉快そうに笑う。 「あれは誰のことも気にしない」  遠くで何かが鳴いていた。あれは鯨か、それともただ波のうねる音か。 「ネレウス」  ゼベルの老練な王は、その気さくな性格と類まれなる美貌で国民から慕われている。しかし、彼の魅力はそれだけではない。戦場を駆ける姿はまさに「獅子」、逆立つ赤髪はたてがみのように燃え、戦士たちを奮い立たせる。陸の生物など見たことはないが、話を聞く限りでは、きっと彼のように美しいのだろう。前線からは退いたものの、数々の武功を上げ、今尚兵士たちの手本となるべき人物だ。  ジャンは幼い頃より皇太子ネレウスと共に鍛錬を積んだ親友であり、共に戦場を駆けた戦友であった。王とその臣下だが、お互い気の置けない関係だった。それが、ジャンの知る彼のすべてだ。 「参謀殿と俺ならどちらを信頼する?」 「当然、お前だ」  わかりきった答えだった。 「ならば」  ならば、もうあの男と関わるのはやめろ。  しかし、それ以上は続かなかった。ネレウスは王として、多くのものを犠牲にしてきた。その上彼まで奪ったら、もう「ゼベル国王陛下」としてしか生きられなくなるような気がした。 「ならば、得体の知れないものを無闇に口に入れるのはやめろ」 「気をつける」  赤髪の王は快活に笑った。