キスに関する3編。

愛情

「オットー!」  とん、と背中に衝撃を感じ、オットーは振り返った。しなやかな若木のように細い腕が腰に巻きついてくる。 「ノーマン、どうかした?」  ノーマンは嬉しそうに顔を上げた。走ってきたのか、頬が僅かに赤い。 「べつに用はないけど、歩いているところが見えたから」  長い金髪が太陽の光を反射してきらきらと輝き、オットーは思わず目を細めた。彼にとってノーマンはまさしく太陽のような存在だった。強烈な光は目を焦がし、激しい熱気のせいで近づくことはできない。それでも伝わってくる体温と、時折見せる子供のような笑顔が見たくて、つい心の深い場所まで招き入れてしまう。 「課題も終わったし暇だろ? 飲みに行こうぜ」  そう言っていたずらっぽく笑うノーマンからは、コロンと煙草が混じった匂いがする。それは決していやなものではなく、残り香をずっと追いかけてしまう。

ふたりはふらふらになりながらアパートの階段を上る。古い建物なので、足に体重をかけるたびぎしぎしと板が鳴いていた。オットーは友人の薄い肩を借り、なんとか歩いていたような気がする。記憶がところどころ抜け落ち、気がつくと彼は自分の部屋のベッドに腰を下ろしていた。隣にはビールの瓶を持ったノーマンがいる。ガラス玉のような目が白く濁っていた。 「それで? ロージーとは美術館に行って食事をして、そのまま帰ってきたのか?」 「うん」 「まったく! ティーンのデートじゃないんだ。もっと一緒にいたいって言えばよかったのに」  ノーマンの体が密着してくる。酒のせいでいつもより体温が高く感じる。 「でも二回目のデートの約束もしたよ。今度は映画に行こうって」 「よし、そこで挽回しよう。僕が完璧なプランを立ててやるよ」  ノーマンはなぜか当人よりも楽しそうだった。もともと催し物や遊びの計画が好きな彼は、嬉々として喋り出す。 「まず、映画は遅い回にしよう」 「どうして?」 「そのほうが、終わったあとに『ついでにディナーでもどう?』って誘いやすいだろ」 「なるほど」 「レストランは、そうだな……。この間できたばかりのところ、おいしいって評判だぞ」 「でもあんな綺麗なところ……」 「こういうのは雰囲気が大事なんだよ。で、レストランを出たら腹ごなしに歩こうって言うんだ。近くに小さな公園があるから、そこのベンチに座って、いい雰囲気になったらキスでもなんでもすればいい」 「二回目のデートでキスは早すぎるんじゃないかな」 「オットーは真面目すぎるよ」  ノーマンは瓶に口をつけ、一気に飲み干した。白い首が蛇のように流動する。 「ちなみにキスの経験は?」 「二、三回くらい。一度歯が当たって、相手の子の唇から血が出ちゃった」 「ふふっ」 「笑い事じゃないよ……。そのあと気まずくなって別れたんだから。君は慣れてそうだね」  青い目がオットーを見つめる。薄い膜が貼ったように青が滲んで、今にも溶けてしまいそうだった。 「練習させてあげようか」  想像していたよりも冷たく、乾いた唇だった。オットーは目を開けたまま友人を迎えたが、最後には睫毛しか見えなくなった。 「……鼻、ぶつからないんだね」 「顔を傾けるのがコツなんだよ」  離れようとするノーマンの頬を両手で包み、もう一度唇を重ねる。口内に舌を差し込むと、すぐに同じものが巻きついてきた。粘り気のある水音と、呻き声以外聞こえなかった。 「結構、うまいじゃないか」 「そう?」 「うん……。これなら、彼女も君に、夢中になるよ」  ノーマンの体から力が抜けていく。このまま白いシーツに沈んでしまいそうだ。恐ろしくなったオットーは、少しだけ腕に力を込めた。

執着

ソファの上に見知った男が横たわっている。彼は激しい怒りを込めてオットーを睨んでいるが、青い目には僅かに恐怖が宿っている。その態度が余計に相手の加虐心を刺激すると、どうして気づかないのだろう。  オットーは男の体を押さえつけた。抵抗されたが、体格差でかなうはずがない。男は年の割にほどよく筋肉がつき、しなやかな肉体を持っていたが、小柄で華奢な彼が長身のオットーから逃げられるはずもなかった。 「このっ……!」  男はなおも抵抗する。ひとを蔑んで見下ろす青い目、嫌味しか吐かない薄い唇。それらをすべて切り取ってしまえば、彼らはもとの関係に戻れるだろうか。あるいはこのまま攫って、物言わぬ人形として部屋に飾ってやろうか。そうすれば、毎日男の美しい顔を見ることができる。本当に、顔だけは美しい。その顔の下にどれだけ醜悪な心を隠していようと、ノーマン・オズボーンは今も昔も美しい男だった。  オットーは男の首筋に顔をうずめ、息を吸い込んだ。彼からはもう、煙の匂いはしない。ベルガモットの香りが鼻腔をくすぐる。白い首筋に吸いつくと、男は体を強張らせた。 「……ん」  男は何もしてこなかった。どうやら嵐がおさまるのを大人しく待つつもりらしい。彼のネクタイを緩め、シャツのボタンを外し、オットーはいくつも首筋に跡をつけた。 「……オットー」  青い目の中に知らない男が映っていた。 「やめて、くれ」  薄い皮膚に歯を立てると、男は背中を反らせ、かすれた悲鳴を上げた。オットーの口内に鉄の味が滲む。

目を開けると、見慣れた天井がそこにあった。  オットーはのろのろと体を起こした。隣で眠る妻はまだ寝息を立てている。窓から見える空は白み始め、その色は夢で見た男の目に似ていた。

机の荷物を猛烈な勢いでダンボールに詰めていくオットーを誰も見はしなかった。ここではよくある光景だからだ。  研究の打ち切りを告げられたときは、頭が真っ白になった。仕方がなかった、役員会で決定したことだ、まだ時期じゃない、もう少し様子を見よう、金を集めるのは私だ、口答えはするな、いやなら出ていけばいい。他にもいろいろ言われたような気がするが、よく覚えていない。  オズボーンは変わってしまった。今や金の亡者に成り下がり、社会のためではなく会社の利益のために動いている。やつは何もわかっていない。オットーの研究は他の何よりも優先するべきものだったのに。くだらない空飛ぶ板だのに力を注ぐ前に、もっとやらなければならないことがあるはずだ。  ダンボールと紙の束を抱え、オットーは足早にエレベーターへ乗り込んだ。もうここに彼の居場所はない。ビルを出ると、最上階の窓からあの青い目が張りついているような気がした。

親愛

ぱしゅっと間の抜けた音がして、グライダーのエンジンがついた。 「やった……!」  ノーマンはドライバーを握ったまま目を輝かせる。恐る恐る足をグライダーに載せ、操作すると、数センチメートルほど浮き上がる。 「直ったよ、オットー!」  友人の嬉しそうな声に、オットーも思わず微笑む。  「あの世界」から壊れたグライダーを持ち帰ったノーマンは、暇を見つけてはこつこつとそれを修理していた。まだ精神的に不安定だった彼も、このときだけは目が冷めたように手を動かす。気分転換にちょうどよいと、オットーも誰も止めなかった。 「本当に直してしまうなんて」  感心したように呟くオットーに、ノーマンはにやりと笑いかけた。 「ハリーに頼んで会社から部品をこっそり持ってきてもらったからな。……まあまあ、そんな怖い顔をしないでくれよ。もとを辿れば僕のものだから」  ノーマンはグライダーに飛び乗った。エンジンから流れる風が、床の埃を巻き上げる。 「それに、僕は欲しいもののためならどんな手でも使うんだ。君ならよく知ってるだろ?」 「その傲慢さはほどほどにしたほうがいい」 「忠告はありがたく受け取っておくよ。バルコニーの窓を開けて!」  オットーが窓を開けると、グライダーは滑るように飛び出した。外に目を向けると、ノーマンを乗せたグライダーが宙に浮いていた。 「完璧だ」  グライダーはバルコニーの周りをくるくると飛び回る。 「うん、ちゃんと操縦もできる」 「あまり遠くに行かないでくれよ。君にはもう増強剤の力はないんだから。落ちたらお終いだぞ」 「わかってる」  ゆっくりとグライダーがバルコニーに降り立つ。ノーマンは頬を紅潮させ、オットーの手を握った。 「一緒に乗ってみよう」 「いや、それは……」 「大丈夫。操縦は僕がするから」  ノーマンに手を引かれ、グライダーに乗せられたオットーは慌てて首を振る。 「死因がグライダーからの落下なんて勘弁してくれ」 「僕にしっかり掴まっていれば落ちないよ」 「重すぎて落ちることはないか? 僕の背中には四本も腕があるんだぞ!」 「大丈夫、だと思う」  そうこうしているうちに、グライダーは再び宙に浮く。オットーは細い腰に手を回し、ぎゅっと目を瞑った。 「目を閉じると余計に怖いよ」 「うるさい。早く終わらせてくれ」  背中から伝わる振動で、ノーマンが笑っていることがわかった。  体を空気の波が伝い、流れていく。オットーは恐る恐る目を開けた。色とりどりの看板や建物が乱雑し、そこを様々な人間たちが行き来する。背後の「子供たち」も楽しそうに歓声を上げ、首を伸ばしているようだ。 「僕がいるから全然怖くないだろ?」  耳のそばで唸る風の音に負けないよう、ノーマンは大声でそう言った。返事をする代わりに、オットーは小さな背中に額を当てた。  グライダーはビルの隙間を縫い、街を縦横無尽に駆けていく。ミニチュアのように広がる街の景色は、正直オットーも見慣れていた。アームを使えば高所などあっという間に登りきってしまうからだ。しかし、全身に受ける風と、微かに香るノーマンの石鹸のような匂いは、この瞬間にもっと特別な意味を持たせる。  ひとしきり街を飛び回り、グライダーは再びバルコニーへ帰ってきた。興奮冷めやらぬ「子供たち」をなんとか宥めすかし、オットーはグライダーを畳む友人へ向き直った。 「ノーマン」 「ん?」  ガラス玉のような目にはオットーしか映っていない。細い腰を引き寄せ、額に口づけする。 「君の発明は本当に素晴らしい」 「当然だろう?」  ノーマンは笑って背伸びをし、友人の頬に唇を押しつけた。