ビクターとクラーク。
初めて空を飛んだときのことを、クラークはよく覚えている。海と空の境界線をなぞり、空気の抵抗をものともせず進む。風になった気分だと、クラークは思った。風はどんな場所でも、いつの時代でも止むことはない。 (どこにでも行ける) そう、クラークは思った。笑いが止まらなかった。 (僕はどこにでも行ける。なんでもできるし何にでもなれる) だからクラークは空を見ると希望が湧いてくるのだ。
ビルの火災は1時間ほど続いていた。クラークが現場に到着したとき、まだ火は消し止められておらず、黒い煙が高く上がっていた。 建物が崩れる地響きのような音の中に、微かに人の悲鳴が聞こえる。クラークの鋭敏な聴覚はそれを取りこぼさなかった。 「助けて」 その声に導かれ、クラークは一気にビルの最上階まで飛ぶ。中にはまだ逃げ遅れた人間たちが助けを待っていた。死の恐怖に慄く彼らは、クラークへと懸命に手を伸ばす。深紅のマント、胸元の「S」のマーク、逆光に照らされた影は神々しささえ感じる。 クラークは運べる限りの人々を慎重に下ろしていく。消防隊とも協力して救助活動を行うが、思ったより手間取った。何しろ人数が多過ぎる。ビルは轟轟と燃え盛り、灰と化すのも時間の問題だろう。 みんながいてくれたら──。 そのとき、クラークの目の前を銀色の物体が通り過ぎた。それは煙に包まれたビルの最上階に飛び込むと、幼い子供を抱きかかえ、炎の中から脱した。子供をそっと地面に下ろした彼は、またビルの中へと戻っていく。 「ビクター!」 金属の部品に覆われた青年、ビクターはクラークの声に振り返った。ジェットエンジンを搭載するビクターにとって、空を飛ぶなど容易いことだ。 「どうしてここに?」 「警察の無線を聞いた」 ビクターは肩を竦める。 「手が足りないだろうと思って」 突然、爆発音が響いた。もうビルはもたないだろう。クラークの表情が険しいものになる。 「上の階にまだ人が」 「わかった。手分けしよう」 クラークが返事をする前に、ビクターは勢いよく飛び出した。急いであとを追いつつ、クラークは微笑む。若いが頼もしい子だ。 ビクターが加わったことで、救助は早く進んだ。 「他に人は?」 ビルのオーナーである老紳士は全員の避難を見届けたらしい。クラークの言葉を聞き、彼は首を振った。 「いない。私で最後だ」 クラークはほっと息を吐いた。ビクターは空から見回っているようだが、早くこの場を離れないと自分たちの身が危ない。 クラークがビルを見上げると黒い煙の中、光る何かが落下してくる。 (そんな!) さっきまであんなに自由に空を駆けていたのに。クラークは慌ててそれに向かって飛んだ。なんとか落ちてきたビクターを掴み、クラークは金属の体を揺すった。 「ビクター! しっかりしろ!」 傷はないようだが、煙に巻かれて息ができなくなったのだろうか。気を失ったのか、まさか手遅れだったか。 最悪な想像がクラークの頭を過る。 「うっ……そんなに揺すらないでくれ……酔いそうだ」 クラークに抱きかかえられたビクターがゆっくりと目を開く。 「ビクター! よかった! 急に落ちてきたからびっくりしたよ」 「ごめん」 「いいや、でも何かあった?」 ビクターの体が僅かに強張った。 「飛べなくなった」
これは自分にしか解決できないことだと、クラークは意気込んでいた。現在チームの中で飛行能力を持つのはクラークとビクターだけである。突然飛ぶことができなくなったビクターをなんとかできる者は自分しかいない。クラークはそう考えていた。 「大丈夫だよ、ビクター。僕と一緒に練習しよう」 「練習?」 当の本人は怪訝そうな顔をしたが、クラークはお構いなしに続ける。 「実践あるのみさ。さあ立って、立って」 クラークはビクターの冷たい手を引いた。練習場所は決めている。以前バリーと競走した場所だ。あそこなら人目につかないだろう。 「飛ぶときにいつも何を考えている?」 クラークの問いにビクターは首を傾けた。 「わからない」 「じゃあ、初めて飛んだときのことは?」 「よく覚えていない。あのときは必死だったから」 突如機械の体にされ、否応なく戦いに巻き込まれたのだから、記憶が曖昧なのは当然だろう。初めての戦場の中で、ビクターは懸命に自身の能力を測っていたに違いない。 「手を貸して」 クラークはビクターの手を取った。飛行の感覚を思い出せないなら、思い出させればいい。 「いくよ!」 掛け声とともに、ふたりの足は地面から離れる。クラークはビクターの手をしっかりと握り、宙へ浮かんだ。 「わあ! クラーク、ちょっと!」 ビクターは足をばたつかせた。その顔は恐怖に歪んでいる。 「どうー? コツを掴めた?」 「待って! 一度下ろしてくれ!」 ビクターの必死な声を聞き、クラークはゆっくり着地する。 「ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだ」 「大丈夫」 息を整えたビクターは溜息をついた。 「やっぱり俺には無理だ」 珍しいビクターの弱音に、彼が本当に追い込まれていることが伺えた。責任感の強い青年は、自分が飛べなくなったことでみんなに迷惑をかけてしまうと心配していたのかもしれない。 「ビクター、もう一度僕にチャンスをくれないか」 金属の重い体を抱え上げ、クラークは再び浮上する。 「しっかり掴まって」 青い空を一直線に進むクラークは、徐々にスピードを上げていった。空気の抵抗が強くなり、顔に当たる風の勢いも増す。 「ヤッホゥ!」 ビクターは思わず歓声を上げた。彼の楽しそうな声に、クラークも頬を緩ませた。 「気持ちいいだろう!」 「ああ! 最高だ!」 海に行こうと言い出したのはクラークだ。ビクターにもあの日の気持ちよさを味あわせてあげたかった。 スーパーパワーを持つクラークにとって、たかだか数十キロの距離など造作もない。あっという間に海に着いたふたりは、縦横無尽に空を駆ける。 「アーサーはいるかな?」 「どうだろう」 「このままフランスまで行っちゃう?」 「それもいいな」 ふたりは散々笑った。そして笑いが途切れた頃、ビクターが呟いた。 「飛ぶのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった」 その声はとても小さく、風の音にかき消されそうなほどだったが、鋭敏な聴覚を持つクラークには届いていた。 突如奪われた生身の体と、その代わりに得たテクノロジーの力。日々変わりゆく自分の肉体に、ビクターは戸惑っただろう。自身の力を上手くコントロールできず、周りとの違いに悩んでいた幼い頃のクラークと同じように。 クラークは初めて空を飛んだときのことを思い出した。海と空の境界線をなぞり、空気の抵抗をものともせず進む。風になった気分だと思った。風はどんな場所でも、いつの時代でも止むことはない。 (君はどこにでも行ける) クラークは静かに微笑んだ。ここには青い空と海だけが広がっている。彼らを遮るものは何もない。 (君はなんでもできるし何にでもなれる) 空は昔と変わらず、クラークにとっての希望を司っている。ビクターにとっての希望も早く見つかればいいと、クラークは心から願った。
「大丈夫かい?」 「多分イケる。ちゃんと見ててくれ」 ビクターは大きく深呼吸をすると、目を閉じた。途端彼の背中のジェットエンジンが作動し、数センチではあるがビクターの体は宙に浮いた。 「よし!」 「やった! よかった!」 ふたりは喜びのあまり飛び上がる。 「すごいじゃないか。たった1日で元に戻るなんて!」 「先生が優秀だったからな」 ビクターは悪戯っぽく笑った。この青年はときどき、実年齢よりも幼い笑顔を見せることがある。 「生徒が優秀だったんだよ。僕は何もしてない」 「いや、クラークのおかげだ。ありがとう」 素早く礼を言うと、ビクターは顔を反らす。恥ずかしいのか、顔が微かに赤い。 「それから、もうひとつお願いがあるんだが」 ビクターはクラークのほうへ向き直った。その真剣な瞳に、クラークは僅かに気圧される。 「また一緒に飛んでもいいかな」 滅多にない友人からの誘いに、クラークは笑顔で答えた。