バルネレのデート

頭ひとつ分ほど抜き出た長身は、雑踏の中でもよく目立った。加えて、服の上からでもわかるほど恵まれた肉体、長い睫毛に縁取られたマラカイトグリーンの瞳、桜貝のように淡い色の唇。正体に気づかれるからと、赤髪は結い上げ、黒く染めているが、それでもネレウスは十分に人目を引く。  そんな端正な美男子の横で、バルコはため息をつく。なぜこいつのお守りを任されてしまったのか。

オーバックスに呼ばれたバルコは、思わず飛び出しそうになった悪態を慌てて飲み込んだ。 「相変わらずつまらなさそうな顔をしているな!」 「すまない、バルコ。彼がどうしてもお前に会いたいというものだから」  赤い髪に美しい横顔。ゼベルの至宝と謳われるネレウス皇太子殿下がそこにいた。彼になぜか気に入られて以来、バルコはずっと追い回されている。  顔をひきつらせるバルコの横で、ネレウスは嬉しそうだった。 「実はネレウスが街を視察したいと言ってきて」 「貴殿に案内を頼みたいだ」 「バルコになら、私も安心して友人を任せられる。頼まれてくれないか」  主にここまで言われて断れるわけがない。バルコは「かしこまりました」と頭を下げるしかなかった。

「あれはなんだ!」 「殿下、あまり動き回らないでください」  ネレウスは街の様子を物珍しげに眺め、興味を引くものがあると、そちらへ駆け寄ろうとする。とはいえ、彼の身長では見失う心配もない。それよりも、バルコは周りの様子に警戒していた。  相手は一国の皇太子である。変装をしているとはいえ、見るひとが見れば正体に気づくだろう。ネレウスに何かあれば、それはすべてアトランティスの過失となる。軽く「任せる」と言われたが、バルコに課せられた責任は大きい。  一時も気を抜けないバルコに引き換え、ネレウスは呑気なものである。 「ゼベルとは随分街の様子が違うなあ」 「そうですか」 「今度我が国にも来るといい。俺が直々に案内してやろう」  この緊迫感をもう一度味わうなど、ごめんこうむる。適当にネレウスのお喋りを聞き流しながら、バルコはあたりに危険がないか見渡した。  視察(という名目の、ただの散歩)を続けていくうちに、バルコも通りの様子を楽しむ余裕が出てきた。しかも今日は休日で、市が開かれ、たくさんの人々で賑わっている。 「ひとが集まっている」  ネレウスが指した方向には、確かにひとだかりができていた。 「あれは装飾ナイフですね」  そこには柄や刃にさまざまな模様が施されたナイフが並んでいた。 「アトランティスは金属加工、とりわけ刃物の生産が有名でして」 「ゼベルは装飾品や細工物が主な産業なんだ」 「存じております。特に珊瑚は、七国の中でも随一の美しさを誇る、と」  自国を褒められ、ネレウスは嬉しそうだった。素直な男だと思う。 「おいしそうなものがある!」  そして心移りも早い。そういえば、そろそろ昼時かとバルコは思った。 「私が買ってきましょうか」 「大丈夫だ。案内の礼にお前の分も買ってきてやる」  随分恩着せがましい言い方だと思ったが、バルコは皇太子殿下を見送り、建物の影で待つことにした。目の前を大勢の人々が足早に行き交う。 「ちょっと」  声をかけられ、顔を上げると、三人の男たちがバルコの視界に映った。 「ああ、お姉さんかと思ったら『お兄さん』か。髪が長くて気づかなかった」  男たちはへらへらと笑う。 「お兄さん暇なら一緒に見て回らないか」 「ひとりだとつまらないよ」  バルコは内心ため息をついた。こういう輩には慣れている。むしろ、真っ昼間の人混みの中で声をかけるのなら、危険な連中ではないのだろう。 「友人を待っておりますので」 「じゃあお友だちも一緒でいいから」 「その子もあんたみたいにかわいいの?」  危険ではないかもしれないが、とにかくしつこい。離れようにも、ネレウスを見失う可能性がある。どうしたものかと考えていると、突然ぐいっと腰を引き寄せられた。 「俺のつれに何か用か」  声の正体はネレウスだった。怒気を滲ませた視線で、男たちをまっすぐ睨む。そういえば、バルコは彼が怒ったところなど、これまで一度も見たことがなかった。  筋骨隆々の大男に睨まれて、たじろがない者などいない。男たちはもごもごと何事が呟くと、素直に離れていった。 「助かりました」  バルコが礼を言っても、ネレウスは離れようとしない。 「殿下?」  見上げると、ネレウスはぷいっと顔を背けた。どうやら、皇太子殿下は自分が目を離した隙に、他の男に言い寄られていたことが気に入らないらしい。 「ネレウス様」  バルコは腰を抱かれたまま、ふわりと浮き上がると、ネレウスの額に口づけをした。 「ネレウス様、先程はありがとうございました」 「ん」 「ネレウス様が来てくれなかったら、あの者たちの頭を叩き潰しているところでした」 「お前意外と物騒だな」  ようやく笑顔を見せたネレウスに、バルコはほっと息をつく。このまま帰るまで拗ねられるとさすがに面倒だった。 「さあ、もう城に戻りましょう」 「わかった」  ネレウスがぎゅっと手を握る。そんなにしなくとも、お目付け役のバルコは彼から離れたりしないのに。しかし、手から伝わる温もりは不快なものではなく、城に着くまでは好きにさせてやろうと、バルコは引かれるままに雑踏を進んだ。

ネレウスはこの場所を知っていた。 「ネレウス殿?」  先を行っていたバルコが振り返る。 「どうなされました?」 「いや……」  しかし、なぜ知っているのかまでは思い出せない。  ネレウスは視察と被害状況の確認という名目で、アトランティスの街に来ていた。戦争が残した傷跡は大きい。各々胸の内にある思いや痛みや怒りはあるだろうが、まずは四国が協力して復興に努めるべきだということで意見が一致した。

先に対処すべきは、今回最も甚大な被害を負った甲殻王国である。王は怪我で療養中、幸い命に別状はなく、ベッドの上からあれやこれやと指示を出してはいるらしいが限界があるだろう。加えて、有事の際に王の代わりを務める家臣の何人かも戦死していた。人員の足りない甲殻王国には、ゼベルやアトランティスから何人かの人間が派遣された。

若き女王が治めることとなった魚人王国も、まだまだ不安定な状況である。何しろ、女王はまだ幼く、経験が少ない。ネレウスにすらこの状況に対応するのは骨が折れるというのに、少女のようなあどけなさがのこる彼女に、はたして乗り越えられるだろうか。  幸いなことに、魚人王国は法律制度が整っており、大臣たちもみな人格者だと聞く。幼い女王をしっかりと支えているようだった。メラにもときどき様子を見に行ってもらっているが、当分問題はないだろうとのことで、少し安心している。 「むしろあの女王様、うまく回していると思う」 「あの子が?」 「頭はいいし口は達者だし。あと数年もすれば、お父様も散々やり込められるかもよ?」  成長が恐ろしい、いや楽しみだ。

各国の様子を見れば、ゼベルの状況などまだましなほうだろう。戦死者は多く出たが、国土が直接攻撃されたわけでも、王が討たれたわけでもない。しかし、墓の前で泣き崩れる遺族たちを見ると、心が僅かにざわめいた。国の平穏のためなら、感傷に浸っている暇などないと、誓ったはずなのに。

「ネレウス殿」  顔を上げると、青い瞳がじっとこちらを覗いていた。 「先程からどうされたのですか。ご気分が優れないようなら、少しお休みしますが」 「いや、大丈夫だ。問題ない」  ネレウス殿。ネレウス殿、か。  そういえば、この男はいつから「ネレウス殿」と呼ぶようになったのだろう。  皺と白髪が増えたくらいで、華奢な体など昔とほとんど変わらない。  だが、彼は変わった。そして彼らの関係も、決定的に変わってしまった。それがよいことなのか悪いことなのかわからない。若い頃に戻りたいかと問われれば、そういうわけではない。しかし、今のままで幸せかと聞かれると、すぐに返事はできない。  アトランティスは今、混乱の真っ只中にいる。先の王が玉座を降り、新しい王が立った。しかし、彼はこれまで地上に暮らしており、こちらの流儀もほとんどわかっていない。先王である弟と、ネレウスの娘に尻を叩かれながら、なんとか王としての務めを果たそうとしているらしいが、安定するまでに何年もかかるだろう。アトランティスの街は静かだ。みなこれからのことに不安を覚えている。 「ネレウス殿」  バルコが立ち止まり、こちらを振り返った。 「いかがですか、アトランティスの街は」 「とても静かだ。まるで死んだように」  ネレウスは素直に感想を言った。 「みな騒ぐ気力もないのだろう」 「ええ」 「お前の王はこれからが大変だな。もとの状態に戻るまでに何年もかかる」  バルコはここへ来て初めて笑った。 「あなたも同じだったでしょうに」  真意がわからず混乱するネレウスをよそに、彼はくすくすと笑い続けた。 「即位の儀のあと、よく泣きついてきたではありませんか」 「そうだったか」 「都合の悪いことはすぐに忘れる」  その顔は、かつてネレウスが見たものだった。口が達者で気が強く、ネレウス相手でも平気で悪態をつく。性悪で小癪で最低な、私だけが知る、私だけの。  ネレウスは街を見渡した。全盛期のような騒がしさはないとはいえ、ひとの通りはある。みな自分のすべきことのために、先を急いでいる。あの地上と海底の血を持つ王も、変わっていく。ネレウスがそうだったように。  ならば、我々の関係も変われるだろうか。 「城に戻ろう」 「承知いたしました」  ネレウスは細い腕を取ろうとして、逡巡し、結局何もしなかった。さすがに、まだ早すぎる。