ネレウスは毎朝、決まった時間に目が覚める。それは「王」と呼ばれていた頃からの習慣だった。  外はまだぼんやりと薄暗い。ベッドを整え、隣の寝室の扉を開ける。  微かに寝息が聞こえた。  陸で暮らすようになってから、ネレウスはバルコが眠る姿を初めて見た。普段はこちらを射抜くような大きな目も、今は瞼で隠され、灰色の髪が枕の上に散っている。そして、これも最近知ったことだが、彼は存外寝起きが悪い。  ネレウスはそっと寝室の扉を閉め、キッチンへ向かう。確か卵があったはずだ。それにハムを入れてオムレツを焼く。レタスを洗い、トマトを切る。パンを焼く間に豆を挽き、コーヒーを入れる。香ばしい匂いがキッチンに満ちた。これが朝の香りだ。ネレウスがここに来て最初に学んだことのひとつだった。  朝食を終え、コーヒーを飲みながら新聞に目を通していると、ようやくバルコが起きてきた。 「卵は?」 「……結構です」 「コーヒー」 「……飲みます」 「自分で入れろ。それからサラダもある。パンは一枚でいいな?」 「……はい」  起きたばかりでまだ頭が働いていないらしい。バルコはカップを持ち上げるのすら億劫そうだった。常にきっちりと身を整え、洗練されていた男が、乱れた髪のままパンを齧る。その姿は、思ったより悪いものではない。  大概、後片付けは最後に食事をした者、つまりバルコの役目だった。それが終わると、彼は庭に出て、雑草を刈り、買ってきた植物を植える。花壇を作ろうとしているらしい。毎日飽きもせず土を掘っているせいで、バルコの肌はすっかり黒く焼けている。

もう城には来ないだろうと聞いたとき、ネレウスの心に生まれたのは始め、怒りだった。置いていかれた、と思った。その上、ネレウスはこの話を本人ではなく、その主君から聞いた。  閑居はまだいい。よりによって陸に住むのか。煙の舞う汚れた土の上で暮らすのか。 (裏切り者)  アトランティス王から教えられた場所には、粗末な小屋が立っていた。ひとひとりが住むには十分な家だが、七つの海で最も高貴な生まれの人間として、長年ゼベルの宝石と名高い宮殿に身を置いていたネレウスには、所詮あばら家だった。  バルコは意外にもあっさりと出迎えてくれた。 「よくここがわかりましたね」  緊張感のない言葉に脱力した。  小屋の中はがらんとして、ほとんどものがなかった。丸いテーブルと、木の椅子がひとつだけ。 「まだ家具を揃えていないんです」  これほど雑な歓迎を受けたのは、長く生きている中でも初めてだった。一応椅子は譲ってくれたが、身分の高い相手をもてなすには最悪の場所だ。  バルコはミネラル・ウォーターのペットボトルをネレウスに渡し(信じ難いことだが、彼の家には食器類がなかった)、自分はさっさと庭に出てしまった。  手持ち無沙汰になったネレウスは立ち上がると、窓を開け、庭を見渡した。小屋よりもはるかに広い。しかし、長年手入れがされてなかったのか、雑草が生い茂っている。その一区画、ほんの僅かだが雑草が刈り取られ、土を耕したそのスペースの前にバルコは蹲り、花の苗を植えている。 「何をしている」  ネレウスはペットボトルの水に口をつけた。水分が循環し、体の中を潤していく。 「庭園を作っています」 「なぜ」  その質問には答えず、バルコは黙々と手を動かし続ける。  馬鹿馬鹿しい。ネレウスは舌打ちした。ただ植物を植えることになんの意味があるのか。あの苗は、恐らく購入してきたものだろう。客にグラスも出せないくせに、花など買っている場合か。  口がひどく乾いた。何度も唇を舐めるせいで、そこがひりひりと痺れてきた。陸地でも呼吸はできるとはいえ、慣れない環境に長時間晒された体は悲鳴を上げ始めている。息が苦しかった。無様に咳き込む姿だけは見せまいと、ネレウスは細く息を吐いた。 「こんな場所で、よく動き回れるな」 「こんな場所?」 「呼吸がつらい」  不意にバルコが顔を上げた。 「十九で城に召し上げられてからこれまで、息ができたのはアトランナ様が即位され、そして海溝に落とされるまでの数年間だけ」  太陽の下に晒されると、彼の目はより一層美しさを増すらしい。ネレウスはそれに初めて気がついた。 「どこに行っても同じです。私にとってはどこでも同じ」  そう言うと、バルコはふっと微笑んだ。 「でも最後の数年は、満ち足りたものでした。あの子たちのおかげで」 「あの三人はよくやっている」 「そうでしょうね」  お嬢様によろしくと言って、バルコはネレウスを見送った。  それから一ヶ月も経たないうちに、ネレウスは王座を退いた。

昼時になった。 「そろそろ食事にしないか」  窓から声をかけると、バルコは素直に立ち上がった。  昼は大概、片手で軽く食べられるようなものを作る。ネレウスは庭に出て、ガーデンテーブルにサンドイッチと水を入れたピッチャーを並べる。具材は二種類。ベーコンと玉ねぎを挟んだものと、肉を食べないバルコのために、鯖とクレソンを挟んだものを用意した。 「果実の苗を植えようと考えています」  長い指が庭のほうを指した。 「橙色の果実がうまく成ったので、種類を増やそうかと。野菜を植えてもいいですね」  バルコは誰ともなしにそう言った。  後片付けをし、軽くシャワーを浴びてから、食材を買いに出かける。小屋の隣には、ふたりの数少ない所持品のひとつである車が一台停めてある。高度なテクノロジーを駆使した海底の戦闘機を操る彼らかすれば、地上の自家用車など子どもの玩具と変わりない。しかし、これがなければ買い物にすら行けなかった。  バルコは当然のように後部座席の扉を開けた。すでに彼らの間には身分という差はなく、対等な関係であるはずだが、長年の間に染みついた慣例は容易く矯正されるものではない。ネレウスは黙って車に乗り込んだ。扉が閉まる。  目的地に到着すると、園芸品を見てくると言って、バルコはスタスタと行ってしまった。子どもでもあるまいし、何度も来ている場所だから迷うこともないだろう。勝手にすればいいと、食材を選ぶ。どうせ食の好みなどないような男だ。何を食べても、バルコは「おいしい」としか言わない。 「他にも何かあるだろう。どこがどうおいしい、とか。これが好きとか、きらいとか」  いつだったかそう尋ねると、彼はしばらく考え込んでから、困ったように笑った。 「塩辛いですね」  あれ以来、食事について意見を求めることはやめようとネレウスは誓った。実際、バルコにこれといったこだわりはないのだろうと思う。彼は地上の食事にもすぐに慣れた。地上に来て直後、食が細くなったネレウスの横で、まったく衰えない食欲を見せてくれた。  唯一、肉類だけは「血の味がする」と言って一切口にしない。ネレウスも最初は独特の生臭さに顔を顰めたが、慣れてしまえばなかなか旨いものだった。もともと好奇心旺盛な彼は、未知の食材でもおいしく食べることができる調理法を研究し、今ではキッチンを完全に支配している。  買い物を終え、荷物を車に詰めていると、大きなトレーを抱えたバルコが戻ってきた。トレーの上には苗木の入ったポットが整列している。 「運転する」 「よいのですか」 「お前はその荷物を押さえていろ。頼むから車に土をぶちまけるなよ」  バックミラーからちらりと後部座席を見ると、バルコは大人しくトレーを支えていた。視線は苗木から離れず、心なしか楽しそうにも見える。  食事の用意をする間、バルコは再び庭に出て、残りの作業を片付けた。シャワーで泥を落とし、着替え終える頃には、テーブルに皿が並んでいた。  黙々とフォークを口に運ぶバルコは、その料理がエスカベッシュという名前だとも、庭で穫れたオレンジを使っていることも知らないだろう。 「おいしいか?」 「ええ」  それでも空になった皿が、今夜の料理に対する答えだろう。 「あなたが作ってくださるものは、なんでもおいしいです」  小さな呟きが、空の皿に当たって弾ける。  食事を終え、一息つこうとソファの上で本を開いた。数ページ進んだところで、体が僅かに沈んだ。この家はそれほど面積もなく、かつ家具も必要最低限のものしかない。ダイニングは固くて、身を休ませるには適さない。となると、座る場所はソファしかなかった。  住居が狭くなるのは不本意だろうに、ネレウスが最低限の荷物とともに居座り続けても、バルコは何も言わなかった。かといって、「ここにいてほしい」とも言わない。ただ淡々と事実を受け入れる。楽な関係だが、ある意味で虚しい。  昼間の庭仕事の疲れからか、華奢な体がうつらうつらと舟を漕ぎ始める。 「前にあなたが、地上はきらいだが花というものだけは美しいと、言っていたでしょう」  こちらに語りかけているのか、あるいは夢の中の言葉なのか、バルコは続ける。 「あの庭園は、どんな季節でも花が咲くようにしたいんです。春には春の花が、秋には秋の花が」  長い睫毛が、無防備に眠る男の顔に影を落とす。ここで暮らすようになってから、ネレウスは彼が眠る姿を初めて見た。髪にそっと触れても、起きる気配はない。  どこでも同じだと言っていたが、ここが彼にとって、ほんの少しでも息のしやすい場所になってくれたなら、これほど喜ばしいことはない。