ハンルス未満。
こんな日にサイクリングへ行こうなどと言った馬鹿はどこのどいつだ。 ジェイク・“ハングマン”・セレシンは額から流れる汗を乱暴に拭い、ひたすらペダルを漕ぐ。 (……まあ、俺なんだけど) プライベートの誘いなら、もっと他にあったはずだ。映画を見るとか、酒を飲むとか、とにかく今の状況よりずっと楽で快適でついでに涼しめるものがあったはずなのだ。それなのに、ハングマンは今、上り坂を目の前にして、必死にペダルを漕いでいる。 こうなったのはすべて彼の同僚、ブラッドリー・“ルースター”・ブラッドショーのせいだ。休暇の予定を聞いたとき、ルースターはもごもごと彼らの教官(でありルースターの保護者でもある)の家に行くかもしれないと答えた。それからか何かを思い出したかのようにぼそっと呟いた。 『自転車』 『は?』 『自転車を直そうかと』 『なんだそれ』 『マーヴからもらったやつ』 『え?』 『だから、この間家に行ったときにマーヴから古いマウンテンバイクを譲ってもらったから、それを直そうかと思ってる』 ルースターは口数が少ない男だ。そのため、何か聞こうにもすべての情報を引き出すまで苦労する。 『マウンテンバイクねえ。あのひとが持ってたなら相当いい代物だろうな。ならサイクリングでも行くか』 『なんでお前と』 『いいじゃねえか。トレーニングの一環ってことで』 『休みの日まで仕事のことをしたくない』 そう言いながら、ルースターの口元が僅かに緩んでいることを、ハングマンは見逃さなかった。 ハングマンは急いで家族が住む家まで車を飛ばすと、古いマウンテンバイクを積んで戻った。久しぶりに乗るので、錆を落とし、油を差した。何度か近所を回り、微調整をくり返す。 準備は完璧だった。あとは天気がよいことを祈るだけだ。ハングマンの願いは叶い、その日は快晴となった。ただ、予想外だったのは天気が「よすぎた」ことだ。照りつける太陽の下、ただ立っているだけでもじっとりと汗が滲む。 上り坂の終点はまだ見えない。これならもっと涼しい場所で楽しめるものに誘えばよかった。しかし、後悔してもすでに遅く、今のハングマンにはただ足を動かして、少しでも前に進むことしかできない。 ようやく終わりが見えてきた。ハングマンはスピードを上げ、やっとの思いで坂の最も高い場所にたどり着く。 「で、全然来ねえし」 ハングマンは眼下のはるか向こうにルースターの姿を確認した。上り坂に気を取られて気づかなかったが、かなり距離が空いてしまった。この分だと、ここまで来るのに相当時間がかかるだろう。 (こんなときでもノロマなのかよ) 結局、ルースターが追いつく頃にはハングマンの体力も回復し、むしろ早く漕ぎ出したくてうずうずしていたほどだ。 「遅い!」 仁王立ちで迎える彼を見て、ルースターはのんびりと答える。 「もう先に行ったのかと思った」 「そんな薄情な人間だと思ってたのか」 「演習のとき……」 「あれはあれ、今は関係ない」 とにかく早く進みたいハングマンは、ルースターの運転に納得がいかない。 「大体トロすぎるだろ。何やってんだよ」 「ペース配分を考えるとあそこでスピードを出すのは得策じゃない」 「俺ずっと待ってたんですけど」 「そもそも待てと頼んでない」 ハングマンはかちんときたが、ここで言い争って無駄に体力を使うのも馬鹿馬鹿しいので、ぐっと堪えて再びマウンテンバイクに跨った。 「まあいいや。とにかく行こうぜ。ここから下り坂だから楽だな」 ハングマンはペダルを漕いだ。しかし、すぐにその必要はなくなる。進むままに任せていれば、自転車は勢いよく坂を滑り下りていく。 思わず歓声を上げた。風が心地よい。冷たい空気の壁に包み込まれているようだ。汗もすっかり乾いてしまうだろう。ハングマンは風の音と匂いを感じながら坂を下る。 ついに終わりが見えてきた。道がなだらかになってもマウンテンバイクは止まらない。しばらく余韻を楽しんでから、ハングマンはようやくブレーキをかける。そしてうしろを振り返った。 (マジかよ) ルースターははるか後方にいた。ブレーキを駆使しながら、ゆっくりと慎重に坂を下っている。 再びハングマンには休憩時間が与えられた。 「なんでしゃーっといかねえんだよ! 下りなんだからしゃーっと下りろよ!」 「ペダルがとられると危ない」 「こんなときまで安全運転かよ」 ここから先は平坦な道が続く。ふたりはバイクに跨り、ペダルを漕ぎ始めた。 しばらく走ってから、ハングマンはまた隣にルースターがいないことに気づく。少しだけスピードを緩めると、すぐに見慣れた顔が並んだ。 ゆっくり漕いでいるので、ペダルはいつまでも重いままだ。ハングマンが描いていたよりも穏やかな速さで自転車は進む。景色や風も緩やかに流れる。 「やっぱり疲れたんじゃないか」 不意にルースターがそう言った。 「坂道であんなに飛ばすからだ」 「はいはい」 自分を待たせるのはきっとこの男くらいなのだろうと、ハングマンは思う。