アーサーくん修行時代のお話。
「少しいいか」 バルコに呼び止められ、振り向いた侍女はぎょっと目を見開いた。その様子に、彼は困ったように笑う。そんなにひどい有様だろうか。 「白粉か、何か傷を隠せるものはないか」 「……お待ち下さいませ」 侍女は早足で廊下を駆けていった。バルコはため息をつき、壁にもたれかかる。 戻ってくるだろうか。ひどく怯えていた。あのまま逃げてしまったのではないか。 しかし、それから数分もしないうちに侍女はバルコのもとへ走ってきた。 「こちらへ。塗って差し上げます」 「しかし」 「参謀殿がこのようなことに慣れてらっしゃるとは思えません。私がやったほうが早いでしょう」 バルコは苦笑すると、おとなしく侍女に従った。 小さな部屋の鏡台の前にバルコを座らせると、侍女は丹念に白粉を塗っていった。白い粉は瞼の赤黒い腫れを隠し、頬の赤みを薄くする。バルコが目を開ける頃には、いつもどおりとはいかずとも、見ていられる顔にはなった。 「ありがとう」 礼を言われた侍女は、おずおずと口を開く。 「バルコ様……」 しかし、バルコは侍女を視線だけで黙らせる。彼女の言いたいことはよくわかる。このようなことに巻き込んでしまって、申し訳ないとも。この城にいる全員が「それ」に気づいている。だが、誰も何も言わない。バルコもまた、あえて表に出す必要はないと思っている。 侍女は首を振り、労るように微笑んだ。 「また、白粉が必要になったら言ってください。私が塗って差し上げますので」 バルコは頷くと、廊下の奥へ進んでいった。
陸にいるときのほうが、息がしやすいなんて。 バルコは海水を吐き、濡れた髪を結い直した。 浜に人影が見えた。すらりと背の高い少年は、自分の身長よりも巨大な矛を携えている。 「アーサー王子」 少年は不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「お前を待ってた」 「ずっとここで?」 アーサーは何も答えず、矛を構える。 「この間の続きだ」 突き出された鋭い一撃を、バルコはひらりとかわす。 「筋は悪くありませんが」 柄を握ると、自分のほうへ引き寄せた。アーサーがぐらりと傾く。 「動きが大きすぎます」 そして今度は勢いよく押し出す。少年のまだ発達しきってない体は木の葉のように翻弄され、地面に尻もちをつく。 「いった!」 「何度も言っているでしょう」 バルコはアーサーに手を差し伸べたが、彼がそれを掴むことはなく、自力で立ち上がる。ますます眉間の皺を深くする少年の態度を、バルコは気にしなかった。 「今日は矛を使いません。座学をやります」 「はあ?」 「本も持ってきました」 次々と差し出される書物の数々に、アーサーは顔を顰める。 「お勉強なんてやだよ。なあ、今日こそあの技を教えてくれるんだろ?」 「座学も立派な鍛錬です。それに、あれはまだあなたには早すぎます」 アーサーは唇を尖らしたが、おとなしく本を抱え、歩き出した。血気盛んなところもあるが、素直なよい子だ。のめり込まないようにしなければと、バルコが思うくらいには。 「お勉強なら俺の部屋でいいだろ。父さんも出かけていて、しばらく帰ってこない」 バルコはアーサーに続いて小さな灯台に、彼の家に上がる。ここへ来たのは初めてだった。海の見える窓、古いソファ、埃の溜まった本棚。ここでアトランナは愛するひとと出会い、愛を育んだのかと、思わず部屋を見渡す。 「人間の家が珍しいのか」 声のしたほうを見ると、アーサーが筆記用具を持って立っていた。 「そうですね。我々のものとはだいぶ違う」 「そうなんだ。いつか行ってみたいなあ」 未知の世界を思い、目を輝かせるアーサーに、バルコは胸を痛めた。はたして、彼らの国は少年に誇れるほどのものだろうか。 「いつか、つれていって差し上げますよ」 「その前にお勉強、だろ?」 「よくご存知で」
アーサーが「これ以上文字を見たら頭が沸騰する」と音を上げ始めた頃、扉が開き、男が入ってきた。 「父さん!」 「おっ、宿題をしてたのか。偉いぞお」 アーサーの父、トーマス・カリーは大きな手で息子の頭を撫でた。アーサーのほうも、ようやく「授業」から開放されたと喜んでいる。 そのとき、ようやくトーマスは見知らぬ影の存在に気がついた。訝しげな視線の彼に、バルコは目礼し、敵意がないことを示す。 「前に話したバルコだよ。ほら、母さんの」 「ああ……」 アーサーの言葉に、トーマスは警戒を解いた。仮にも妻を攫ったやつらと同じアトランティス人に対して、随分不用心だと思ったが、戦いから縁遠い人間というのはこういうものなのだろう。バルコは立ち上がり、頭を下げた。 「勝手にお邪魔して申し訳ありません」 「いや、いいんだ。こちらこそ息子がいつも世話になって……。おい、客人にお茶も出さなかったのか。しょうがないな。今お湯を沸かそう」 「じゃあ俺は茶菓子でも買ってこようかな! 人間の食いもん初めてだろ? 楽しみにしてて!」 またバルコとふたりきりにされ、「授業」が再開することを恐れたアーサーは、一目散に駆け出す。 「おい! ……まったく、騒がしいなあいつは」 微笑ましい親子の様子に、バルコも思わず笑みをこぼす。 「すみませんね。男手一つで育ててるもんだから、気が回らなくて。なんか迷惑とかかけてないかな」 「いいえ。アーサーはとてもよい子です」 ときどき反抗的な態度をとったり、座学となると文句を言ったり、一応年長者で師匠のバルコにも平気で乱暴な口を利くこともあるが、という言葉はあえて飲み込む。 「そうか。ならよかった」 トーマスはどうやら素直にバルコの言葉を受け取ったらしく、にこにことしている。 「それじゃあ菓子を待つ間に、俺はあんたのその足を診てようかな」 「え?」 「立ち上がったときにわかったんだが、どこか怪我してるのか」 なるほど、どうやら見た目や雰囲気よりも敏い人間らしい。バルコはソファに座ると、靴を脱ぎ、ぴっちりと肌に密着した下履きをめくり上げた。 「これは……」 トーマスが顔を顰める。右足は何かで打ちつけられたように痣だらけだった。それだけではなく、いくつか火傷の跡もある。事故などではない。故意に傷つけられたことは明らかだった。 トーマスは黙って戸棚から救急箱を取り、傷を処置していく。傷口を拭い、消毒液をかけ、包帯を巻く。凄まじい痛みのはずなのに、バルコは僅かに眉をひそめるだけで、声ひとつ上げなかった。 黙々と包帯を巻く灯台守が何を考えているのか、バルコには大体見当がつく。彼は今、愛する妻のことを考えているのだろう。これほどの所業がまかりとおる国につれ戻された妻は、一体どれだけの責めを受けたのだろう、と。 しかし、トーマスはそれを顔には出さない。バルコにぶつけることもしない。ただ、目の前のことをなんとかしようと手を動かしている。 「これでよし」 真っ白な包帯に覆われた右足は、今になって鈍く痛み出す。 トーマスはキッチンに引っ込んでしまった。バルコといると妻を思い出すのかもしれない。それは彼にとってつらいことだろう。バルコは灯台守に女王の処遇について伝えるべきかどうか迷っていた。今話しても、取り乱すだけだろうか。もう少し様子を見るべきか。しかし、時間が傷を癒してくれるとは思えない。現に、バルコがそうだった。 「紅茶を入れたんだけど」 背後の気配に振り向くと、トーマスがカップをふたつ持って立っていた。 「飲むかい? まだ熱いけど」 「こうちゃ?」 バルコはカップを受け取ると顔を近づけた。中には茶色の液体が波を立てている。不思議な香りが鼻をくすぐった。幼いアトランナと行った東の海の草原の香りがする。 「こうやって飲むんだ」 トーマスがふうっと息を吹きかけると、カップから立ち昇る湯気が揺れた。バルコも真似して、自身のカップに息を吹きかける。 トーマスがカップに口をつけた。 「うん、もういいだろう」 バルコもカップに口をつけた。じんわりと温かさが広がり、続いて爽やかな香りが鼻腔を満たした。 「アトランナも同じことをしていた」 トーマスは微笑んだ。恐らく、彼はすべてを悟っている。それでも笑って、バルコに紅茶を出し、彼らにとって愛おしい女性の話をしてくれた。 「熱いという概念は、我々にとって珍しいものですから」 「なるほど」 バルコはもう一度カップに口をつけた。アトランナもここに座って、この温かい飲み物を口にしたのだろうか。彼女の人生に、こんなぬくもりのある一瞬があったことを嬉しく思った。 少年が道を急ぐ軽やかな足音が聞こえくる。