ビクターとブルース。

ピザの箱にスナック菓子の袋、甘いジュースのペットボトル。以前までは考えられなかったようなものがケイブのあちこちに置かれている。ブルース・ウェインがそこに足を踏み入れたとき、すでにふたりの先客がいた。先客のひとりである赤いジャケットの青年は固い革靴の音を聞き、嬉しそうに振り向く。 「ブルース!」  気づいたときには、青年はブルースの目の前にいた。彼に普通の人間の体感時間は遅すぎる。それでもブルースを友と呼んでくれた、大切な友人のひとりだ。 「ビクターと映画見てたんだ。ここのテレビ、うちの3倍はあるから」  集めた情報を映すためのディスプレイが、今や若者たちの玩具になっている。子犬のようにじゃれてくる赤い影に微笑み、ブルースはもうひとりの先客へ目を向けた。  ビクター・ストーンはいつもと同じ、灰色のパーカーを着ていた。フードを被った背中は無機物のようで、恐らくそれは陰気な色をしたパーカーのせいだけではない。  ビクターはおもむろに立ち上がると、お菓子の袋や油の染みついた箱で散らかっているテーブルを片付け始めた。すぐさま赤い影が飛び出し、落ちていたごみを集める。ある程度まとめるとビクターはそれらを抱え、こちらを振り向きもせずに行ってしまった。多分、ケイブへは戻ってこないだろう。  ブルースはこの年下の仕事仲間が、はっきり言って苦手だった。アーサー・カリーのように豪胆でもなければ、クラーク・ケントのように正義と優しさのみで構成された人間にも見えない。ダイアナ・プリンスのような強さや高潔さも感じない。バリー・アレンが持つ年相応の無邪気さも。  掴み辛い若者──ブルースはビクターをそう評していた。共に戦った仲であるビクターについて、何も知らないわけではない。機械と融合することとなった青年。人でありながらその大部分は金属の部品に覆われた、サイボーグ。  しかしブルースの持つビクターへの一通りの理解は、彼と接する上で不必要なものだった。いくら正義の下に活動しているとはいえ、常日頃から戦いに身を投じているわけではない。ヒーローだって安らぎを求める。すっかり仲間たちの溜まり場となったケイブは、休息と団欒の場としての機能を果たしていた。ブルースが持つ「サイボーグ」の知識は、ここでは役に立たなかった。  ビクターは落ち着いた青年だった。年の近いバリーと比べると、彼の落ち着きは異様なものにブルースは思えた。突如望まぬ力を持たされ、元の生活を捨てざるを得なくなった青年をダイアナはずっと気にかけていたが、それも杞憂だったのだろう。所属していたアメフトチームではクォーターバックを担っていたためか、周りをよく見て会話を取り持ってくれる。仲間たちともすぐ打ち解け、始めはいがみ合っていたアーサーとも軽口を叩き合う仲となっている。  それなのに、この老成した青年はなぜかブルースに近づこうとしなかった。他の者たちには自然と見せる笑顔も、ブルースには向けようとしない。  だが、ブルースにとってそれは格段困ることでもなかった。ビクターから何かしらのアプローチがあったとところで、彼とうまく会話できる気がしない。ブルースは元来物静かな男である。元アメフトのスター選手で、それなりに友達も多かったであろう若いビクターと話が合うとは思えない。同じ若者でもバリーとよい関係を築けているのは、ブルースが彼に自身と似たところを見出しているからだ。ブルースが幼い頃から抱えてきた孤独と同じものを、あの心優しい青年の瞳にも見たからだ。しかしビクターは違う。まったく違う環境で生きてきた若者だ。同様の隔たりを感じるからこそ、ビクターもブルースには不用意に近づかないのだろう。話が合わないのなら、むしろ今の距離のほうがありがたい。べつに仲が悪いわけでもない。事務的なやり取りも特に問題なく行えている。ただ苦手なものがひとつ増えた、それだけのことである。

そんなビクターが進んでブルースに話しかけることなど、極めて稀なことだった。誰もいないケイブの中、ひとり眉根を寄せ、キーボードを叩くブルースの元へ、ビクターはゆっくりと近づく。 「これをブルースにって、ダイアナが」  ビクターから手渡れたものは、以前ダイアナに調査を依頼した絵画の資料だった。最近ゴッサムシティでは画廊を狙った強盗事件が多数起きていた。盗まれた絵の情報から犯人へ繋がるヒントを得られないかと、学芸員としての顔を持つダイアナに調べてもらっていたのである。 「ありがとう、そこに置いていてくれ」 「机の端のほうでいいか?」 「ああ」  それ以上話すこともなく、ふたりの間に気まずい空気が流れる。これがクラークなら買い戻した家の住み心地を聞けるし、アーサーなら魚とどのようにコミュニケーションをとるのか尋ねられるのに。 「……何か手伝うことはないか?」  聞こえてきた小さな声にブルースは思わずキーボードを叩いていた手を止めた。普段若者らしからぬほど落ち着いたビクターからは想像もできないくらいに弱々しく、不安そうな声だった。 「いや」  一瞬答えに詰まった。半分機械となった青年をこのまま帰してはいけないような気がしたからだ。  ブルースの沈黙を拒否と受け取ったのだろう。 「ないならいいんだ」  ビクターは寂しそうに笑った。 「邪魔して悪かったな」  重い足音が遠ざかっていく。ブルースは再びモニターに目を戻すが、何も頭に入ってはこなかった。

カップのコーヒーはすでに冷めていた。その冷えたコーヒーに口をつけつつ、ブルースは溜息をつく。彼の座るソファは最近ケイブに入れたものだが、入れ代わり立ち代わりで誰かが使うせいか、すでに張りをなくしていた。 「浮かない顔ね」  突然の来訪者はブルースへと歩み寄った。 「ダイアナ……」  黒のライダースーツに身を包んだダイアナの手には、ブルースと同じ白いカップが握られていた。 「アルフレッドに淹れてもらったの」  ダイアナは体をブルースの隣に沈ませた。長い話になると思ったからだ。 「俺はやはり、リーダーに相応しくないのかもしれない」  ブルースの滅多に消えることのない眉根の皺は、いつにも増して深く刻まれている。 「どうして?」 「ときどき君たちと、どう接していいのかわからなくなる」  白いソーサーを意味もなく弄びながら、ブルースは言葉を続ける。 「仕事の仲間は多くいたが、こういう友人は久しぶりなんだ。親しくなりたいのに壁を感じてしまう。ビジネスの場では回る口も役に立たない」  ブルースは大きく息を吐いた。 「俺には、みんなをまとめる自信がない」 「あなたは自分を卑下しすぎよ」  淹れたばかりだったダイアナのコーヒーからも、湯気は消えていた。カップをテーブルに置き、彼女は口を開く。 「察しはついた。ビクターのことね?」 「なんでそれを」 「あなたたちを見ていればなんとなくわかる」  なんということだ。ゴッサムシティを守るダーク・ナイトとして、世界最高の探偵として暗躍するブルース・ウェインにあるまじき失態である。そんなにもわかりやすく態度に出ていたのか。 「あなたがビクターと合わないように感じるのは違う環境で生きていたからじゃない。あなたとビクターが似ているからよ」 「似ている?」 「ええ、そっくり!」  ダイアナはふっと顔を緩ませた。 「本当の気持ちに蓋をしがちなところ、なんでもひとりで解決しようとするところ、すぐに自分を犠牲にしようとするところ」  次から次へと紡がれる言葉に、ブルースは目を瞬かせる 。自分がどのような人間なのかは、案外わからないものである。  神の血を引く女性の慈愛に満ちた瞳が悲しげに曇った。 「ビクターはね、母親を亡くしているの」  ダイアナの声と空調の音だけがケイブに響いている。 「父親は仕事ばかりで、関係もうまくいってなかったんですって。大好きだったアメフトも、やめるように反対されて。彼、本当はプロになりたかったみたいだけど」  幼い子供に語り聞かせるような口調でダイアナは言う。 「ブルース、壁はそこにあるものじゃない。自分で作るものよ」

ダイアナはかれこれ10分近くケイブの中を歩き回っていた。ここは人を探すには広すぎる。頼まれていた資料を握りしめ、ダイアナはブルースの姿を求めて歩き続けた。 (あら?)  件の人物ではないが、見覚えのある灰色の背中が丸まっている。ビクターは自身が作り出したホログラムをまじまじと観察し、こちらに気づいていないようだった。 「何してるの?」  青年は驚いた顔で振り向く。赤い左目がきょろりと動いた。 「立体映像も映せるんだ」  ビクターは得意げに笑う。 「そのうちみんなで3D映写会ができるかもしれない」  ビクターの明るい声にダイアナは少しだけ安堵した。突然得た力に戸惑い、塞ぎ込んでいた青年の影は薄まっている。彼は確実に変わっていた。しかもよりよい方向に。 「ブルースを知らない?」  ビクターは首を傾げる。 「見てないな」 「じゃあ、彼がいそうなところは?」  ビクターの頭にはケイブの地図が入っている。この複雑な敷地の構造を記憶しているのは、彼とケイブの持ち主であるブルースとその執事くらいだ。 「パソコン弄ってるのかも。俺が渡してこようか?」 「いいの?」  確かにケイブの中を知り尽くしたビクターに渡してもらうほうが、このまま歩き回るよりも賢明かもしれない。ビクターはダイアナから資料を受け取ろうとするが、なぜか逡巡し、それを押し返した。 「いや、やっぱりダイアナが渡したほうがいいと思う」  青年は困ったように眉を寄せる。 「君が行ったほうがブルースは喜ぶから」  面白い言い方だと、ダイアナは思った。まるで自分が行ってもブルースを戸惑わすだけだと、この繊細な青年は思っているようだ。 「どうしてそう思うの?」 「ブルースは俺が苦手らしい」  ビクターは淡々と言葉を紡いでいく。銀に光る横顔からはなんの感情も読み取れない。 「嫌いというわけではないみたいだけど、俺が傍にいると困った顔をするから」  ダイアナは自らの洞察の甘さを少しだけ悔いた。もうビクターは大丈夫だろうと、勝手に考えていた。人の感情の機微に敏感な青年は、ブルースとの会話から何かを感じ取っていたのだろう。 「そんなことないと思うけど」 「彼は俺の名前を一度も呼んだことがない」  ビクターの声は静かだがその瞳が一瞬不安そうに揺れ、ダイアナは胸が締めつけられるように痛んだ。聡明な分析能力と機械の体を駆使し、敵を次々と蹴散らした頼もしい男はそこにいない。ただ年上の友人との関係に悩む若者だけだ。年相応の心もとなさを垣間見せたビクターを放っておけるわけがなかった。 「だったら尚更、これはあなたが渡して」  ダイアナは青年の胸に紙の束を押しつける。 「大丈夫。取って食われるようなことはないわ」  そう言ってダイアナは悪戯っぽく笑う。彼女の笑顔に安心したのか、機械の腕がおずおず伸び、押しつけられた束を受け取った。

ケイブの奥、バットモービルやバットポッドの並ぶガレージについた灯のほうへブルースは歩みを進めていた。誰がいるかは見当がついている。大小様々な車両や武器を置くこの場所に、わざわざ足を運ぶ仲間はひとりしかいない。 「こんなにボロボロになって、大変だったな」  寒々としたガレージに不釣り合いな、優しい声が響く。ダークサイドとの戦いの傷跡が色濃く残るボディを撫で、ビクターは黒い装甲車に語り掛けていた。 「すぐに直してやるから、どこが悪いのか教えてくれ」  大事な友人と接するように、ビクターの口調は親しみで満ちていた。無邪気に瞳を輝かせる彼は、近づいてくる足音を聞いて顔を上げる。 「随分熱心だな」  ブルースの姿を確認したビクターは手を止め、申し訳なさそうに目を伏せる。 「ごめん、勝手に弄って」 「いいんだ」  ブルースは微笑んだ。積極的に車両の修理を手伝ってくれるのだから、むしろありがたい。 「俺だけだと間に合わないから助かる」  床には部品が散らばり、長時間作業していたことが伺える。ビクターはもう一度黒いボディを撫でた。 「機械と話せるのか?」 「声が聞こえるんだ。この体になってから」  ブルースの打ち解けた口振りに、ビクターも警戒心を解いていく。 「みんなあんたを慕っている。よく手入れしてくれると」  この青年がお世辞を好む人間ではないことを、ブルースはすでに十分理解していた。ビクターの言葉は本当なのだろう。長年使ってきた愛車たちの本音を聞き、ブルースは体中にくすぐったさを感じた。 「俺も一緒に作業していいか?」  ブルースの提案に、青年は大きく見開く。今日のビクターはころころと表情を変える。いや、彼は元々明るく素直な、ただの若者だったのだろう。ただ、ブルースが気づけなかっただけだ。 「その前に少し休憩しよう。取り敢えずコーヒーでも飲まないか。君のことがもっと知りたい」