「友だちを作ってはいけないよ」  それが父の口癖だった。 「お前は女王になるのだから」 「どうして?」  そのたびに、メラは父に尋ねたが、父は答えてくれかなった。  父は優しかった。王女には似つかわしくないほど落ち着きがないメラを、彼はいつも笑って抱き上げた。母の顔を知らない娘に、寂しい思いをさせたくなかったのかもしれない。メラの母は、彼女がまだ言葉も発せないうちに死んだ。 「私の赤い宝石」  父の大きな手がメラの髪を撫でる。親子は同じ、燃えるような赤毛だった。 「また内緒で抜け出したのか?」  父はそっと目を細めた。 「それで、今日はどこで遊んでいたのかな」 「みんなで庭園のほう。秘密基地を作ったの!」 「それは楽しそうだ」  その日、メラは城に住んでいた使用人の子どもたちと一緒に、城の外れにある庭園で遊んでいた。 「だってお勉強、つまらないんだもん」 「つまらなくても必要なことなのだよ。立派な女王になるために」 「でも友だちと一緒にいるほうが……」 「メラ」  父の声は先程までとは違い、冷たく乾いていた。 「彼らは友だちではない」 「おとうさま」 「彼らはお前とは違う」  メラはそれ以上、何も言えなかった。

翌日、城から子どもたちの姿が消えた。どうやら、城下町にある家に帰ったらしい。  メラはひとりになった。

「でもオームは? オームは友だちでしょう?」 「あの子は許婚だ。彼と結ばれ、いずれアトランティスの女王になることは、お前たちが生まれる前から決まっていた」  メラより少し年上の婚約者。隣国の王子。活発な彼女とは正反対の、おとなしく素直な子どもだった。  オームは留学という名目で、たびたびゼベルを訪れていた。彼らは幼い頃から、ともに育ち、学び、武芸に励んだ。父はふたりを分け隔てなく愛していた。 「ここにいたい」  ゼベルでの滞在期限が近づくと、オームは決まって泣きそうな顔で呟いた。 「やっとおうちに帰れるのに?」  そう言って慰めながらも、メラは彼の気持ちがよくわかった。  オームのいる城はきらいだ。暗くて、冷たくて、みんな沈んだ顔をしている。オームの母がいた頃は、もっと明るかったはずなのに。  母を亡くして以来、婚約者は何かに怯えるような目をする。  この城で一際陰惨な気を纏っているのは、ここの主であり、オームの父であるアトランティス王だった。頬はこけ、目ばかりがぎょろぎょろとよく動いた。そして無理矢理口元を歪めて笑みを作る。王の横に控える痩せた男は、常に顔色が悪く、オームの母を殺したという海溝の化け物も、きっとこのような姿をしているに違いない。  メラは彼らが苦手だった。ここにいると、まるで深海に引きずり込まれていくような不安に襲われる。  だからメラは、オームを見送るたび、二度と彼と会えないのではないかという思いに駆られるのだった。

メラは怒りに肩を震わせていた。 (誰も彼も、何もわかってない!)  先刻、オームから伝えられたのは地上襲撃に関する計画だった。 『そのためには七国の結束が必要不可欠だ』  オームは無表情にそう言った。 『君のお父上にも、ぜひ協力してほしいと伝えてくれ』  何が結束だ。オームがやろうとしていることは独裁と侵略だ。彼はオーシャンマスターの称号が欲しいのだ。地上への攻撃は、その口実にすぎない。  オームは焦っている。理由はわかる。彼の兄の存在が、知れ渡ってしまったのだ。地上の血が流れといるといえど、正当な王位継承者であることは変わりない。それを理由に、反体制派が台頭してくる恐れがある。  もちろん、オームとて王座にしがみつくような愚か者ではない。彼は地上の血が混じった、法もしきたりも何も知らない人間に、国を任せられるはずがないと考えている。兄の存在が国を分断し、混乱を引き起こしてしまったら。それを恐れるからこそ、オームはオーシャンマスターの称号にこだわっているのだろう。  そもそも地上の人間に勝てると、本気で思っているのだろうか。相手の兵力すら把握していないのに。数だけであれば、圧倒的にこちらは不利であるのに。  それに、地上には人智を超えた力を持つ者が、少なくとも六人はいる。メラさえ手こずった化け物を倒した超人たち。彼らが黙っているとは思えない。  もう少し相手の動向を調査してから、と顔を引き攣らせる参謀を無視し、オームはメラの手を取った。 『聞き届けてくれるな?』  もちろん、断った。馬鹿なことはやめろと説得した。しかし、駄目だった。オームの意思は堅い。  父はオームにつくだろう。もとより地上に対してよい感情は持ち合わせていない。のちのことを考えても、オーシャンマスターという絶対的権力者についたほうが有利だろうと考える。仮に負けたとしても、失うものはほとんどない。  敵対している甲殻王国は、意外にも地上襲撃に対して積極的かもしれない。ならば魚人王国か。しかし、彼らとの国交はほぼ断絶状態である。  メラは深い穴の底に落とされたような気持ちになった。真っ暗で何も見えず、周りには誰もいない。この世界に彼女の話を聞いてくれる人間は、誰ひとりいない。 「メラ王女」  低く、静かな声だった。振り向くと、先程オームに進言していた男が立っていた。 「やはり、メラ王女だ。立派に成長されて。気がつきませんでした」  戸惑うメラをよそに、男は近づいてきた。白髪の混じった髪を結い上げた、細身の男だった。 「覚えていらっしゃらないか。あなたはまだ小さかったから」 「ごめんなさい」 「いいえ。それにしても懐かしい。よく先王とともに幼い陛下を出迎えておりました。まだ一緒にいたいと泣くおふたりを引き離すのがとても心苦しかった」  そこでメラは、彼がオームの父の隣にいつも立っていた男だと気がついた。 「オームは本気だと思う?」 「おそらく。すでに我が国の考古学班にトライデントの在り処を調べさせています」 「まさか。あれはただの噂話でしょう」  メラは笑ったが、男の目を見て、それが冗談ではないことを悟った。 「あれがあれば、彼が王であることに異を唱えるものはいなくなる」 「それじゃあ、オームより先にトライデントを……」 「殿下」  男は唇に指を当て、にっこりと笑った。 「ここはひとが多すぎます。どこで誰が話を聞いているかわかりません」  メラは慌てて周りを見渡した。人々はふたりのことなど気にした様子もなく、道を急いでいる。しかし、一度疑惑が湧いてしまうと、それまでの光景が急に恐ろしいものに思えた。 「明朝、旧市街の東にある、赤い建物にいらっしゃい。陛下におっしゃっていたことが、あなたの本心であれば」  男はそう囁いた。 「オームを裏切るの? 彼はあなたの王なのに」 「確かに、私は先王の代より王家に仕えてまいりました」  ですが殿下、と男は言う。 「私が忠誠を誓っているのはアトランティス、この国そのものでございます」  メラは初めて男と間近で向き合った。そしてこんなに強い目をしていたのかと、驚いた。  なるほど、男はメラを利用するつもりらしい。王族であり許婚という彼女の立場は、何よりも得難いものだろう。  ならば、こちらも存分に利用させてもらおう。今はたったふたり、それでも何かを動かす力になるかもしれない。何より、話を聞いてくれる人間がいてくれるというだけで、メラは心強かった。暗い穴の底に、一筋の光が差す。 「そういえば、まだ名を聞いていなかった」  メラの言葉に、男は口を開いた。