ギスギスしたノーマンとオットー。

酔うとノーマンは必ずこう聞いた。 「僕のこときらい?」  そのたびにオットーは笑って答える。 「そんなことないよ」  答えを聞いたノーマンはほっとして目を閉じてしまうので、オットーはまたかとため息をつき、しかしどこか嬉しそうに友人の体を担いで、寮に続く道を歩く。    *   「いい絵だ」 「そうですか?」  オクタヴィアスの隣に立ち、一緒に絵を眺めていたハリーがそっと微笑む。目尻に刻まれた深い皺が、時間の経過を感じさせる。 「あなたが芸術に興味をお持ちとは」 「私の妻が英文学に人生を捧げていたことを忘れたか?」 「そうでしたね」  あの頃の尊大で、しかしどこか不安そうな目の少年は、ここにいない。いるのはただ、傷つき、多くのものを失い、それをなんとか乗り越え、今日まで生きてきた壮年の男だ。 「デイリー・ビューグルの記事を読んだよ」 「あれはピーターのおかげです。あいつが取材を組んでくれたから。会場のレイアウトはMJの知り合いに頼みました。僕の個展だけど、僕ひとりじゃできなかった」 「それも君の才能と人徳の結果だ。もっと自信を持ちなさい」  恥ずかしそうにはにかむ姿だけは、十数年前に見たときと変わらない。  あのとき。  最後に見たのは彼の恐怖で歪んだ顔だった。父親を亡くしたばかりだった少年をオクタヴィアスは蔑み、嘲笑い、傷つけた。もとの世界で再会を果たしたとき、ハリーは笑って許してくれたが、やはり今でも僅かな罪悪感が残る。 「ひと目があると気になるでしょう。裏口まで案内します」  外に出るとちょうど雨が振っていた。 「ピーターがまた夕食に誘いたいと言ってましたよ」 「ああ。私もぜひ会いたいと伝えてくれ」  傘を開き、アパートの部屋に戻る。雨で浮かれる「子供たち」の声を聞きながら、ため息をついた。  今日も聞けなかった。  たった一言、「父親は元気か」、ただそれだけなのに、毎回尋ねなかったことを後悔しては、重い足取りで家に帰る。  オクタヴィアスは顔を上げた。雨粒のカーテンの中で、「OSCORP」という文字が爛々と輝いている。    戻ってきてからのオズボーンは凄まじかった。息子との感動の再会もそこそこに、自身の会社の現状を知ると、顔を曇らせた。オズコープは売却こそ免れたものの、社長であるハリーは飾るもののような扱いで、実際の経営は役員たちで回していた。数十年ぶりに戻ってきたオズボーンが社長に返り咲くなど通常はあり得ないことだが、右肩下がりだったオズコープを立て直し、全盛期にまで売上を伸ばした彼を、誰も止めることはできなかった。  また、オズボーンは同時に裁判やこれまでの被害に関する処理も進めた。弁護士を雇い、保釈金を払い、半年ほどでほとんどの事務的手続きを完了させた。オズボーンはなぜかオクタヴィアスの裁判まで引き受けてくれた。 「なに、どうせ同じような手続きだ。ひとつもふたつも変わらないだろう」  オクタヴィアスはオズボーンの手腕に改めて舌を巻いた。そう、オズボーンは頭の回転が速く、優秀なのだ。その優秀さは、自身の人間性を引き換えにしたのだと思うくらいには。   「オズボーンさんなら先週来ましたよ」  オクタヴィアスから皿を受け取りながら、ピーターはこともなげに言った。 「そうなのか」 「個展にもいらしたんでしょう?」  MJは全員分のコーヒーを入れていたハリーの頬にそっとキスをした。 「すごく嬉しそうにしてじゃない」 「まあね」  ハリーは恥ずかしさを誤魔化すように笑った。 「父と連絡は取ってないんですか?」 「博士は電話もメールも苦手だから」 「私たちが教えようとしてもすぐに逃げるし」  年下の友人たちにからかわれても、悪い気は起きない。以前のオクタヴィアスなら不機嫌になっていたかもしれないが、今は違う。穏やかな時間を過ごしながらも、どうしても心に引っかかる「何か」は解消されなかった。  そろそろ帰ろうかと立ち上がると、ピーターが玄関まで見送りに来てくれた。他のふたりは、残って片付けをするらしい。  帰り際、ピーターは声を抑えて言った。 「オズボーンさんと何があったか知りません。どうこうしろと言うつもりない。ただ、今の僕にとっていちばん大切なのはハリーとMJだ。ふたりの悲しみは少しでも取り除いてあげたい」 「どういう意味だ?」 「あなたも知ってのとおり、特にハリーは繊細だ。少しの変化も感じ取って、傷ついてしまう。父親であるオズボーンさんと尊敬しているあなたとの間にいざこざが起きれば、多分いちばんショックを受けるのは彼だ」  親子ほど年の離れたピーターに諭されるとは思わず、オクタヴィアスは黙り込む。 「では、どうすればいいんだ」  口にしたその言葉は小さく弱々しかった。年の離れた友人の前で情けない姿を晒したと、オクタヴィアスは自嘲気味に口角を上げる。 「友人に戻ってくだい、とは言いません。でもきっと、もっと適切な関係があるはずです」 「適切な関係?」 「僕ら三人が十年以上かかってようやく見つけられたような、いちばん居心地がよくて適切な関係がね」 「私たちはもう年寄りだ。君たちのように柔軟に物事を変えられないよ」  年下の友人はそんなオクタヴィアスを馬鹿にすることなく、優しく微笑んだ。 「大丈夫ですよ。だってあなたはもう、どうするべきか知っているはずだから」    オズコープが再び軍事産業に手を出すと知ったとき、オズボーンとオクタヴィアスは大いに揉めた。 「二度と兵器は作らないと約束したのに」 「兵器じゃない。災害現場で使用するロボットだ」 「顧客は軍だろ? どうせひと殺しの道具に使われるのがオチだ」 「ビジネスは君が思っているよりずっと複雑なんだよ」  オクタヴィアスは鼻を鳴らした。 「私に金儲けについて講釈を垂れるつもりか」  付き合ってられないと荷物をまとめ、出ていこうとするオクタヴィアスに、オズボーンはなおも食い下がった。 「物事をうまく進めるには金が必要なんだよ。君だってよくわかっているはずだ」 「ああ、それで思い出したよ。君が死ぬ前に研究費を打ち切ったことも」 「オットー」  青い目が一瞬だけ揺らいだ。 「私が憎いか?」  話はここまでだった。オクタヴィアスは荒々しく執務室のドアを閉め、それ以来会っていない。  折角得たチャンスを無駄にするなんて、オズボーンは愚かだと思う。ここの世界とあちらの世界で犯した罪を忘れたのだろうか。  才能を授かった者は然るべき使い方をしなければならない。  ただ私利私欲にまみれて己の才能を使い果たそうとするオズボーンは、もともと相容れない存在なのかもしれない。  それなのになぜ、彼を無視することができないのだろう。    「子供たち」とパンケーキを焼きながら、オクタヴィアスはテレビの音を聞いていた。特にモリーは、最近料理の楽しさに目覚めたらしく、時間があればしきりに何か作りたいと騒ぐ。食べられるわけでもないのにと苦笑するが、多分作業のひとつひとつが楽しいのだろう。今はパンケーキやオムレツなど簡単なものだが、そのうちもう少し難易度を上げてもよいかもしれない。 「腕が上がれば、今度ピーターたちにもご馳走しようか」  そう言うと、「子供たち」は一際喜んだ。 「……現場のオズコープ社前からです」  オクタヴィアスは顔を上げ、テレビの画面を凝視する。そこには、見覚えのあるビルが映っていた。 「犯人グループは現在、社長であるオズボーン氏を人質に、最上階の執務室に立て籠もっています。オズボーン氏と犯人グループは以前……」  テレビの画面が真っ黒になった。オクタヴィアスはリモコンを置き、ソファに座る。「子供たち」は心配そうに鳴いていた。 「大丈夫だ。なんでもないよ」  金属の爪を撫でながら、オクタヴィアスの頭は先程のニュースでいっぱいだった。  どうせ、愚かなオズボーンがどこぞの誰かの恨みでも買ったのだろう。馬鹿なやつめ。心配することはない。警察も動いてるようだし、解決は時間の問題だろう。ピーターだっている。何も心配いらない。街はいつもどおりだ。最上階。執務室。あのとき以来行ってない。最後に見た青い目。チップが直って正気を取り戻したとき、最初に見たのもあの目だった。大学の講堂。金色の髪。青い目。  オクタヴィアスは窓を開けた。    窓が割れる。オクタヴィアスがガラスの破片とともに、部屋に降り立った。中にいた男たちが驚いたように振り返る。が、もう遅い。金属のアームが唸り声を上げながら、男たちをなぎ倒す。 「ノーマン!」  オズボーンは地面に倒れていた。意識はあるらしく、もぞもぞと起き上がる。 「不法侵入だぞ、オクタヴィアス」 「窓は弁償する」  オズボーンはロープで後ろ手に拘束されていた。それを解いてやり、改めて全身を確認する。口の端は切れ、顔中に痣があった。白いシャツには血が飛び散っている。 「殴られたのか」 「大したことはない」  そう言って立ち上がろうとしたオズボーンの体がぐらりと揺れる。オクタヴィアスは慌てて彼の体を支えた。 「少し休もうか」 「……いい」  友人は掠れた声で呟いた。 「こういうことには慣れてる」  エントランスまで行くと、警察とマスコミの関係者がどっと押し寄せてきた。何もしようとしなかったくせに、とオクタヴィアスは苛立ったが、オズボーンは先程までの様子などまるでなかったかのようにすっと背筋を伸ばし、カメラやマイクに向かっていく。その変わりように、オクタヴィアスは呆気に取られたが、すでに友人はこちらを見ようともしない。  もう用はないということか。  警官のひとりがオクタヴィアスを呼び止めた。彼に促され、六本腕の男はビルを出る。    インタビューを受けていたオズボーンが倒れたと聞いたのは、家に警察に事情を説明し終え、家に帰ってからだった。    扉を開けたハリーは、オクタヴィアスの姿を見て微笑んだ。 「入ってください、博士」  焼いた肉の芳ばしい香りが、玄関まで漂ってくる。 「父はもう来てますよ」  ハリーはちらりとオクタヴィアスを振り返った。 「ありがとうございました。父のこと」 「いや、いいんだ。むしろ事態をややこしくしたかもしれないが」 「そんなことありません。父もお礼を言えなかったと気にしてました」  オズボーンが気にしていた? この私を?  オクタヴィアスは自然と笑みが溢れた。  テーブルにはすでにたくさんの料理が並べられ、うしろで「子供たち」も歓声を上げた。 「びっくりした」  皿を運んでいたピーターは目をぱちぱちと瞬かせる。 「ごめんね。君たちは食べられないんだ」 「すまない、この子たちは最近料理に凝っていて」  同じく皿を並べていたMJが笑う。 「それじゃあ今度作ってもらおうかな」  鶏肉を切り分けていたオズボーンが顔を上げ、小さく頷く。彼とはあの事件以来、会っていない。オクタヴィアスも黙って手を上げ、全員が席についた。 「ええと、それで今日はなんのお祝いだっけ?」  ワイングラスを持ったピーターがニヤニヤとハリーを見る。 「パパの退院祝いだろう」 「私はついでだよ。今日はお前の個展の最終日だったじゃないか」 「お疲れ様、ハリー。オズボーンさんも無事に退院できて何よりです」 「博士、サラダを取り分けましょうか?」 「ああ、いただこう」  賑やかな食事だった。元来、オクタヴィアスは騒がしい場所を好まないが、彼らとは別だ。妻を失ったことで、ぽっかりと開いた穴は未だに塞がらない。きっといつまでもこのままだろう。だが、オクタヴィアスは再びかけがえのないものを手に入れた。彼の新しい居場所だ。  ふとオズボーンを見ると、額に大きなガーゼが貼られている。彼は普段きっちりと整えている髪を下ろしていた。まるで白いガーゼを隠すように。友人は若者たちの会話に時折微笑みを返しながら、どこか遠くを見ている。  全員で片付けをしたあと、さすがに疲れたと言ってハリーは早々にベッドに入った。残された四人でしばらく話していたものの、酒が回ったせいか、ピーターとMJは寄り添うようにソファで寝息を立てている。彼らにブランケットをかけてやったオクタヴィアスは、窓の外をじっと見つめる友人のもとへ歩み寄る。 「怪我はもう平気か」 「うん」  ふたりになると、オズボーンはいつもより無防備に見える。それは決して気のせいでないと思いたい。 「すまなかった」  寝ているピーターたちを気遣ってか、オズボーンは小さな声で言った。 「碌に礼も言えなくて」 「いや」  ガーゼは長い前髪に隠れて、存在感を限りなく消そうとする。 「やはり素直に言おう」  オクタヴィアスの言葉に、友人は目を丸くし、しかしそれを予期していたかのように黙っていた。 「本当は怒っていた。あのときの君の態度はあんまりだ。急に離れてしまって、カメラの前で笑っている。僕のことなんて眼中にないと思った。とても悲しかったよ」  オクタヴィアスは左手薬指の指輪を弄る。彼が考え込んでいるときの癖だった。 「でもあれは、私の姿をカメラから遠ざけるためだな」  オズボーンは黙っている。  あのとき、彼はオクタヴィアスを守るようにカメラの間に立った。 「新聞は君の話で持ちきりだったよ」  オズボーンは鼻を鳴らす。 「目立ちたがり屋の傲慢な金持ち、だろ? 犯人に同情的な声もあった」 「そして僕の記事は小さく、隅のほうに追いやられた。きっと誰も覚えていない」  オズボーンは気まずそうに俯いた。 「いいんだ。僕は、なんというか、ああいうことに慣れてる。誰に恨まれても何も感じない。でも君は違う」  オズボーンは優しい青い目でオクタヴィアスを見つめる。 「君はいい人間だ。好奇の目に晒される必要なんてひとつもないんだ」  この世界に帰ってきて、世間の人々に生存がばれ、オズボーンはマスコミ対策に随分苦労したらしい。 「僕は」  オクタヴィアスは左手に輝く指輪を見た。この光が力をくれる気がした。 「僕はずっと、君に理解してほしいと願っていた。でも僕は、僕は君のことを何も理解できていない」  青い目が無言で続きを促す。 「どうして突然軍にロボットを売ると言ったんだ?」 「それは、悪くない取引だったから」 「嘘だ」  オズボーンはしばらく黙って俯いていたが、やがてため息をついた。 「嘘じゃない。正解だ、半分は。ただ、君に話してないこともある」  友人はぽつりと呟いた。 「君の核融合技術が流出している」 「まさか」 「本当だ。ついでに僕の血清も」  オズボーンは口元を歪ませた。 「広まった情報を買い戻すには金がいる。だけど民間事業だけじゃとても賄えない」  オズボーンの顔に長い前髪が垂れる。 「一度生み出してしまったものは、もう誰にも止められない。生みの親である僕たちでさえも。作り手の思いや願いから離れていってしまう」  前髪に隠された彼の表情は読めない。 「売りつけるのは災害用ロボットだけだよ。まあ、ただの言い訳にしか聞こえないな。僕はまた人殺しに逆戻りだ」  オズボーンが前髪を鬱陶しげに掻き上げる。その顔は、意外にも冷静だった。 「僕がいやになった?」  オクタヴィアスは遠い過去の記憶を思い出していた。 「君は、昔からおかしなことを聞くな」 「そうかな」 「さっきの質問だ」  酔って赤く上気した頬、潤んだ青い目。すべて鮮明に蘇る。 「君はよく僕のことがきらいかと聞いたじゃないか」 「そうだったか」 「執務室で言い合いになったときも、君は憎いかと聞いた」 「そうだったかもしれない」 「そして先程はいやになったかと。なぜだ」  オクタヴィアスは友人を見つめる。 「なぜ君はきらいかどうか聞くんだ。好きかどうかではなく、誰かに憎まれていることを前提にするんだ」  青い目が大きく見開かれる。 「そんなつもりは、ない」 「なら無意識か? なお悪い。なあ、ノーマン」  オクタヴィアスは友人の頰を優しく両手で包んだ。 「ちゃんと答えるよ。随分遅くなってしまったけれど」  湖の水面のように静かな目だった。 「僕は君が好きだよ。ずっと昔から。君とは意見の合わないことのほうが多いけど。それでも君はずっと、僕の大切な友人だ」  オズボーンの顔が大きく歪む。 「随分大げさな、口説き文句だ」 「僕は詩人の夫だからね」  オズボーンはぶつぶつと呟きつつ、決してオクタヴィアスから離れない。