艦長とホールさん。中の人たちの写真を見て。
「艦長さん」 見覚えのある男が大きく手を振る。その姿を目の端で確認したグラスは、急いで彼のもとへ駆け寄った。 「すまない。待ったか?」 「いや、俺も今来たとこだ」 それが嘘だと、グラスはすぐにわかった。口元の髭で隠れてはいるが、男の頬が微かに赤い。秋口とはいえ、今夜はよく冷えた。 「馴染みのパブなんだ。艦長さんには、ちょっと品がないところかもしれないけど」 男に手を引かれるように、グラスは歩き出した。
男とは、アーカンソーの艦内で出会った。首を撃たれ、瀕死の状態で運び込まれた彼は、何日も生死の境を彷徨っていた。他のSEALsとの会話でわかった。ホール。それが男の名前らしい。 もうすぐ本国に帰還するという頃になって、ようやくホールは目を覚ました。 「今年のレースを見るまでは死ねないな」 ホールは掠れた声でそう言った。グラスが彼のベッドの近くにいたことは本当に偶然で、まだ意識の安定しないホールが起きていたことも、また偶然だった。 「私もだ。今シーズンをどれだけ楽しみにしていたか」 「あんたもF1好きなの?」 「時間があれば見に行くこともある」 「へえ」 ホールはへらりと笑った。厳つい見た目に合わず、子供みたいに笑う男だと、グラスは思った。 「だったら今度、一緒に行こうよ」 ただの世間話ですむはずだった。しかし、ふたりはしっかり連絡先を交換し、ホールの宣言通り一緒にレースを観覧した。当初の目的を達成したあとも、頻繁にやり取りは続いた。そして今夜、また会うこととなったのである。
ホールに連れられてきたパブは繁盛しているらしく、賑やかだった。店内のあちこちから、大きな笑い声が聞こえてくる。 「ちょっとうるさいとこだけど」 「確かに。だが私好みだ」 ふたりは顔を見合わせて笑った。 不思議と仕事の話にはならなかった。お互い自分のことを思い思いに語る。 「もともとバイクが好きなんだ。休みの日はツーリングをして、通りがかった湖で魚を釣ったり」 「釣りか、いいね。バイクは私もよく乗る。夏は君と同じように走るけど、冬は山に籠っていることが多いな。そこで狩りをして、気ままに過ごしているよ」 「すごいな! じゃあ肉も自分で捌けるんだ」 「ああ、幼い頃はよく父と一緒に山小屋へ行ったんだ。食料も水も自分たちで調達して。そこで猟銃の使い方も、皮の剥ぎ方も教わった。-もうなくなってしまったけど」 こんなことを言うつもりではなかったのに、グラスの口は止まらない。 「葬式にも行けなかった」 「俺もだ。姉の葬式に出られなかったことを、今でも悔やんでる」 ホールの節くれだった手が重ねられる。 (ああ、そうか) ずっと不思議だった。どうして彼とまた会おうと思ったのか。 彼からは海の香りがしなかった。船乗り、またはアーカンソーのグラス艦長ではなく、ただのジョー・グラスを受け入れ、肯定してくれる気がした。 (海に戻ることがこんなにもおしい、なんて)
「じゃあな、艦長さん」 ホールはあの、力の抜けたような笑みをグラスに向けた。 「今度は艦長さんのおすすめの店にしようぜ」 「-また会ってくれるのか?」 「もちろん、だって友達になったわけだし」 友達。その言葉を、グラスは舌の上で何度も転がす。 「……友人の君に“艦長さん”と呼ばれるのは変な気分だ」 「ではジョー」 ホールはすっと片手を伸ばした。 「デヴィン・ホールだ。よろしく、ジョー」 「こちらこそよろしく、デヴィン」 まっすぐにこちらに伸びているホールの手を、グラスはしっかりと握った。 ふたりは分かれ、それぞれの場所へ戻っていく。 「ジョー!」 名前を呼ばれ、グラスは振り返った。ホールが来たときと同じように、大きく手を振っている。グラスもそれに応えようと、右手を高く上げた。