溺愛する弟が恋人として連れてきたのはかつての宿敵で……っていうステニコ。

手を離した瞬間、こちらを見つめる蒼い目が微かに揺れた。勝利を手にしたのだから、もう少し嬉しそうな顔をすればよいのに。そんな顔をしてほしくなかった。  気高く美しい魂は、どれだけ痛めつけられようと決して屈せず、情は宿敵にすら向けられる。 (結局私は、最後までニコライに勝てなかった)  水の冷たさを感じ、クラウスの意識は消えた。

ここまでが、クラウスの持つ前世の記憶だ。橋から落ちて死んだ男はクラウスではないが、彼のことならよく知っている。彼が追い求めていたものも。  蒼い目の男を探すため、クラウスはまずロシアという国について知る必要があった。言葉を学び、文化を調べた。大学も、ロシア文学を学べる学校と決めていた。  ある日、父から再婚すると聞いた。相手はロシアから仕事のため、ドイツにやって来た女性で、もうすぐ国へ帰るらしい。父もついていくと言う。大学卒業まで待つと父に提案されたが、クラウスは率先して一緒に行くと主張した。現地で学ぶのがいちばんだと訴える彼に、父は頷いた。  勿論学問のためでもあるが、蒼い目の男に関する手掛かりを得るチャンスを逃したくはない。寂しいと泣きじゃくる長身の後輩をドイツに残し、クラウスはロシアへ飛び立った。

すっかり雪に覆われたロシアの地で、新しく家族となる者たちが集う。再婚相手の女性とは何度か面識はあるが、ずっとロシアの祖父母の家に預けられていたという彼女の息子とは、これが初対面だった。  母親のうしろからひょっこりと顔を出す少年の目は、美しい蒼だった。 「ニコライです。はじめまして」  小さな手を握った瞬間、クラウスの頬は温かい涙で濡れていた。

大きなリュックサック、右手には紙袋が三つ、左手には売店で買ったレモネード。両手いっぱいに荷物を抱えたニコライに手を貸そうと、クラウスは腕を伸ばしたが、大丈夫だと振り払われた。弟は頑固だ。あまりにしつこいと機嫌を損ないかねない。せっかくのお泊りなのだから、それは避けたい。荷物は多いものの、ニコライの足取りはしっかりしている。大丈夫だろう。弟の成長を感じ、クラウスは目を細める。  十歳年下の義弟をクラウスは溺愛していた。学校行事にもすべて参加し、行きたいところへ連れていき、欲しいものはなんでも与えた。両親から「どっちが親かわからない」と呆れられるほど、クラウスはニコライの世話を焼いた。そしてニコライも、そんな義兄に心を開き、ふたりは本当の兄弟のように絆を深めていった。  クラウスが就職し、家を出たあとも、ニコライはたびたび彼のところへ遊びに来た。 「お邪魔しまあす」  勝手知ったるとばかりにニコライはリュックサックを下ろし、紙袋をテーブルに置いた。 「これは母さんたちからのお土産」 「いつもすまないな」  荷物を片付け、ひと息ついたところで、クラウスは時計を確認した。そろそろ夕食の時間だ。 「今日は外で食べよう。レストランを予約してあるんだ」 「高いとこ?」 「普段なかなか行けないところだ」  ニコライが歓声を上げる。これくらいで喜んでくれるなら、いくらだって食べさせてやるし、どこへだって連れていってやる。  クラウスはニコライに、何ひとつ辛い思いをしてほしくなかった。それは罪滅ぼしでもあったのかもしれない。今生では傷つくことも、痛みを感じることも、空腹に苦しむことも、憎しみに突き動かされることもなく、ただただ穏やかに過ごしてほしい。

席に着いたニコライはきょろきょろと辺りを見渡し、落ち着かない様子だった。シャンデリアが吊り下げられたレストランなど普段は行かないので、物珍しいのだろう。  食事をしながら、ふたりは他愛ない会話で盛り上がった。大概はニコライが話し、クラウスは聞き役に回る。大学の授業の話、友人たちの話、アルバイトの話。ニコライの世界は話題が尽きない。瞳を輝かせ、見たこと、聞いたこと、感じたことを懸命に伝えようとする。クラウスも微笑んで、彼の話を聞いていた。  食事を終え、会話もひと段落つくと、ニコライは急にそわそわし始めた。何かを伝えようとして、言い淀んでいるようだった。 「どうした、ニコライ。具合でも悪いのか」 「ううん。そうじゃないんだけど」  意を決したのか、ニコライはようやく口を開いた。 「実はね、会ってほしいひとがいるんだ」  クラウスは首を傾けた。会ってほしいとは、どういう意味だろうか。勿論、ニコライの頼みともなれば、どこに呼び出されようが行って会うつもりだが。 「俺の恋人に会ってくれない?」  ワインを吹き出さなかった自分を褒めたい。恋人。コイビト。ニコライの恋人。まず、誰かと付き合っていること自体、初耳だ。  いや、これだけ美しく、ひとを惹きつけてやまないニコライなのだから、恋人がいてもおかしくない。しかし、いくらなんでも突然すぎる。 「付き合って二年経ったし、そろそろいいかなって」  二年も付き合っているのか。クラウスは眩暈がした。なぜ気づかなかったんだ。 「大学の友達のお兄さんなんだ。いつかは父さんと母さんにも紹介するつもりだけど、まずクラウスに会ってもらいたくて」  頬を赤く染め、嬉しそうにそう言うニコライを見て、クラウスは頷くしかなかった。

「そういう訳で、ニコライの恋人に会わなければならなくなった」 「そんなことを報告するために、わざわざ国際電話を使ったんですか」  電話の向こうで、心底興味がないと言わんばかりの溜息が聞こえる。 「いいじゃないですか、年頃の男の子なんだから。恋人のひとりやふたりいるでしょう」 「しかしティーリケ、二年も黙っていたんだぞ。どれだけショックだったか、お前も少しはわかるだろう」 「あなた意外と鈍いですからね」  ティーリケは去年まで同じ職場に勤めていたクラウスの部下で、遠い昔、軍服を纏ったクラウスを献身的に支えた元副官だった。彼自身はまったく記憶がないようだが、ドイツに帰ったあともこうして頻繁に連絡を取り合うのは、クラウスが元部下以上の繋がりを感じてしまうからかもしれない。  電話の向こうが騒がしくなった。「先輩から? 珍しいな!」だの「替わって!」だの、こちらにもはっきりと声が聞こえる。クラウスは苦笑した。 「すみません。帰ってきたみたいで」 「替わってやってくれ」  何やら言い合う声がしばらく続き、よく知った男に替わった。 「先輩、聞きましたよ。弟君が彼氏を連れてくるって。こいつより俺に電話してくれればよかったのに! 兄弟多いから参考になりますよ」  電話の向こうの男、ヴォルフは一気に捲くし立てた。姿は見えなくても、声だけ聞けば、嬉しそうな様子がわかる。犬ならぶんぶん尻尾を振っていることだろう。何年経っても変わらず無邪気で、真っ直ぐに慕ってくれる彼に、クラウスは思わず微笑んだ。ヴォルフとは同じ学校で、先輩と後輩という関係だった。そして彼は知らないが、遥か昔、同じ戦車に乗る上官と部下という関係だった。若くして戦死した人好きのする青年が、今生では幸せに暮らしているようで、クラウスも我がことのように、いや我がこと以上に嬉しく思う。 「とにかくなめられちゃ駄目ですからね! 堂々としてください。でも先輩細いからなあ……。今から肉食って筋トレしましょう!」 「お前と比べたら誰でも細いだろう。もう遅いから替われ」  ヴォルフから電話を奪ったらしいティーリケが、最後に付け加える。 「あなたの弟さんが選んだ相手でしょう? 信じてあげてください。きっとよい方ですよ」 「そうだな……。ニコライが選んだ相手だ。あの子は頭もいいし、見る目もあるから。それにああ見えて真面目でしっかりしている。おかしなやつを選ぶはずがない。かわいいからどんな相手でも落とせるだろうし、そこら辺の男共はあの子の」 「おやすみなさい」  電話は無情にも切られた。冷たい電子音だけが聞こえる。  まあ、いいさ。  クラウスは深く息を吐く。ニコライが好きになったという、世界一幸福な男の顔を、拝んでやろうじゃないか。

父と母は夜まで帰ってこないと言っていた。久しぶりに帰ってきたものの、クラウスは落ち着かない。さっきからソファに座っては立ち上がり、戸棚の前と行ったり来たりしている。  ガチャリ、と玄関で音がした。  声はふたり分。時折、ニコライの楽しそうな笑い声も聞こえる。あと少しで来てしまう。  その男の顔を見た瞬間、クラウスは愕然とした。見覚えがあった。しかも、ここで見た顔ではない。  そうだ、なぜその可能性を考えなかったのか。説明がつかない現象が起こる確率は、向こうも同じであるということに。つまり、望んだ人間の生まれ変わりもいれば、その逆だってあり得る。  相手も心当たりがあるのだろう。表情が強張っている。 「紹介するね」  この場でただひとり、何も知らないニコライは、ようやく訪れた邂逅に、喜びを隠せない。 「兄のクラウス。血は繋がってないけど。で、こっちはステパン」  夢なら醒めてほしい。

***

ステパンは特別信心深いわけでもないが、今日だけは神に感謝するしかなかった。  仕事から帰ってくるなり、妹のアーニャが駆け寄ってきた。彼女にしては珍しく、興奮した様子だった。 「見つけた!」  なんのことかはすぐにわかった。誰にも理解してもらえない前世の記憶を、兄妹は密かに共有していた。 「大学でね、たまたま同じ授業を取ってて。学部は違うけど。もうびっくりしちゃった! ちゃんと連絡先も好感したから」  わたわたと説明する妹を宥めながら、ステパンも喜びを噛み締めていた。この日をどれだけ待ちわびたことか。

そこからは早かった。アーニャの協力もあり、数十年ぶりに目にしたニコライは、相変わらず美しく、精力に満ちていた。何度か会ううちに仲良くなり、友情は次第に別のものへと変化していった。想いを告げた夜は忘れない。街灯に照らされた碧眼はきらきらと輝き、頷くニコライの笑顔で、すべてが報われた気がした。  兄と友人が新しい関係をスタートさせたことに、アーニャも喜んだ。三人で遊びに行くことも少なくなかった。収容所での暗く、思い詰めた彼らの顔を知っているステパンは、楽しそうなふたりを見ているだけで幸せだった。

交際から二年経った頃、ニコライから兄に会ってほしいと言われた。いつかこういう機会はあると覚悟していたが、やはり緊張する。  ニコライの義理の父と兄はドイツ人だと聞いていた。だから少しだけでも話せるようになっていようと、妹の協力も借りてドイツ語を勉強した。アーニャはステパンが知る限り最も前世の記憶が濃く残っていて、ドイツ語のテストのときなど、カンニングを疑われたほど、流暢だった。  勿論、ニコライにも手伝ってもらった。兄のために勉強しているのだと知ると、彼は嬉しそうに笑った。ふたりの先生のおかげで、日常会話レベルには話せるようになったと思う。  ニコライから義理の兄の話は何度も聞かされていた。本当の弟のようにかわいがってくれたこと、優しくてかっこよくて、永遠に彼の憧れだということ。正直嫉妬もしたが、ステパンはすぐに頭を振った。ニコライがそこまで言う人物だ。きっと素晴らしい出会いになるに違いない。  だからリビングにいた男の顔を見たとき、ステパンは全身が凍りついた。そうか、確かに。なぜ今までその可能性を考えなかったのか。  それは向こうも同じようで、顔を引き攣らせている。 「兄のクラウス。血は繋がってないけど。で、こっちはステパン」  うん、知ってる。  目の前が暗くなる。まさか恋人の義理の兄が、前世の宿敵だったとは。 「ニコライ」  先に動いたのはクラウスだった。何事もなかったかのように弟を呼ぶ。 「お茶を淹れてくれないかな」 「いいよ。ステパンも紅茶でいい?」 「ああ」  ぱたぱたとキッチンへ向かうニコライを見送る、ステパンは改めて恋人の義理の兄、そしてかつての宿敵に対峙する。 「こんなところで会うとはな」 「それはこっちの台詞だ。まさかあの子の恋人だなんて……」 「お前こそ、ニコライに兄貴にまんまと納まりやがって。何を考えている」 「何も。あの子が幸せならそれでいい」 「なら今すぐ出ていって二度とあいつに近づくな」 「言っておくが、今私はあの子の兄という立場だ。所詮赤の他人の貴様と違って、私とあの子は家族だ」 「てめえ……」 「お茶淹れたよー」  ニコライのひと声で、ヒートアップしつつあった言い争いは一時休戦となった。湯気の立つカップを三つ載せたトレーを持って、かわいい恋人はにっこりと微笑む。 「仲良くなれそう?」  尋ねられたふたりは揃って笑顔で頷いた。