流血シーンがあります。

笑った顔が好きだった。優しい声も、温かくて大きな体も、彼を形作るものすべてを愛している。  ノーマンの友人は、彼が知る中で最も善良な人間のひとりだった。自分の授かった力を他人の、世界のために使いたいと願う。自らの犯した罪に溺れることなく、立ち直り、償おうともがく強い意志がある。彼はこの先も生きて、幸せになるに値する人間だ。何より、ノーマンは彼を心から愛していた。  だから彼のことは何があっても助けたいと思っていた。

腹からナイフの柄が生えていると思った。正確には、腹にナイフを差し込まれているわけだが、あまりにも現実離れした光景に、頭が働かない。じわじわと赤い染みが広がっていく。お気に入りのシャツだったのに。  腹から生えているナイフの柄を握る。予想外の行動に目の前の男はたじろぎ、ノーマンは思わず笑ってしまった。それはそうだ。刺されたほうから近づいてくるなんて、普通はありえない。しかし、ノーマンにとってきちんと意味のある行為だった。これで相手は逃げられない。 「そんなものを振り回して、私の友人に当たったらどうする」  なるべく力を入れず、男の頬を殴る。以前、八つ当たり気味にテーブルを叩き、ひびを入れたことがあった。こことは違う世界で注入された薬は、ノーマンから凶暴性と残虐性を奪った。しかし、並外れた筋力、高い治癒能力など肉体の強化については効力を発揮してくれなかった。もうひとりの人格についても、完全に消えたわけではない(少しだけ大人しくなったが)。気を抜くと、周りにある様々なものを破壊してしまう。  今回はうまくコントロールできたようだ。不意を突かれた男がよろめく。そのせいで、腹に刺さっていたナイフも抜かれた。すかさず重い金属のアームが、男を拘束する。 「ノーマン!」  友人の声を聞いて、ノーマンはこれまでのことを思い出した。今日は天気がよく、日中はほとんど出歩かないオットーを連れて外に出た。ひと目が気になるなら裏から回ろうと、ほとんど誰も通らない道を並んで歩いていた。昼間だから油断した。前から歩いてきた男が突進してきたとき、ノーマンは反射的に前へ出た。腹部に感じる燃えるような熱に、妙な既視感を覚えた。別の世界で「治療」を施され、歴史を変える以前に、ノーマンは刃に体を貫かれて命を落としたのかもしれない。  腹部を押さえ、ノーマンはすっかり気を失っている男に近づいた。顔に見覚えはない。 「この不届き者を警察に渡さないと」 「その前に病院が先だ!」 「病院? ああ、これか」  赤い染みはスラックスにまで到達していた。なかなかひどい光景だった。 「じゃあ二手に分かれよう。君は警察に行ってくれ」 「僕も一緒に行く」 「こいつはどうするんだ?」  オットーはちらりと男を見た。 「一緒に連れていくしかない」  救急車もタクシーも待ってられないと、オットーはノーマンを抱え、三本のアームを使ってビルの壁をよじ登る。 「みんなに見られる」 「べつにいい」  オットーはビルの間を次から次へと飛び回る。ふと傷口に目をやると、赤い染みは体を密着させている友人の衣服にまで侵入しようとしていた。 「君のコートが、汚れてしまう」 「そんなこと気にしている場合か」  そんなことではない。そのコートは妻から誕生日に贈られたものだと言っていたじゃないか。大切なものじゃないのか。そう口を開こうにも、顔に叩きつけられる風のせいでうまくいかない。ノーマンは諦めて黙っていることにした。  病院の前に着くと、ノーマンは地面に下ろしてもらい、すたすたと入口へ向かう。 「おい、そんなに動くと傷が」 「大丈夫。医者に説明くらいできるさ。まさか強盗を担いだまま入るつもりか? 送ってくれてありがとう。あとは自分で……」  そこまで言って、ノーマンは急に体から力が抜けるのを感じた。慌てて駆け寄ってくるオットーを制し、なんとか体を支え、体勢を整える。 「問題ない。ちょっとふらついただけだ。僕の体が普通の人間より丈夫なのは君も知っているだろう。安心して警察に行ってくれ」  気丈に振る舞いながら、ノーマンは病院の入口へ歩みを進める。友人に無駄な心配をかけたくなかった。なんとか平静を装うとするが、視界がだんだんと霞んでいく。自動ドアが開く間すら惜しい。シャツを血で濡らしたノーマンを見て、受付の男性は目を見開く。前から白衣を着た女性がやって来るのが見えた。恐らく医者だろう。ただ、確証はない。すべての知覚がぼやけている。オットーと離れて、張りつめていた気が緩んだのかもしれない。誰かが肩を掴む。状況を説明しようとした瞬間、目の前が真っ暗になった。

次に目を開けたときには、すべてが片付いていた。  結局ノーマンを心配し、悪漢を連れたまま病院に入ったオットーによってことのいきさつが語られ、怪我人を無事に託したあと、ようやく彼は警察に向かった。 「だから大丈夫だって言ったじゃないか」  退屈だろうとオットーが持ってきてくれた本をぱらぱらとめくりながら、ノーマンは言った。 「前に脚立から落ちて額を切ったときも数時間で治ったんだ。今回も医者が驚いていたぞ。驚異的な回復力ですねって」  友人は黙ったままだった。ノーマンのベッドのそばにあるスツールに座り、先程から険しい顔で俯いている。 「悪かった。謝るよ。いろいろ迷惑をかけてしまって。結局医者への説明も君がしたし、警察への対応だって任せてしまったし」 「そういう、ことじゃない」  オットーは絞り出すような声で言った。 「なんで前に出た?」 「だから、僕は普通の人間より丈夫だし」 「本当にそれだけか?」  病室に沈黙が流れる。 「あれはただの強盗じゃなかった」  オットーがぽつりと呟く。 「前にピーターとふたりで捕まえた男だった。ずっとつけていたらしい。狙いは僕だった」  空調装置の運転音がやたらと響いて聞こえる。ノーマンの頭には、あるひとつの光景が鮮明に蘇っていた。 「冬に、ちょうどクリスマス前だったか、ぼろぼろで帰ってきたときがあったじゃないか。僕はびっくりして、早く家の中に入れって言ったのに、君は床が汚れるかって」  ピーターの肩を借り、戻ってきた友人は、床が汚れるから靴を拭きたいと言っていた。何を悠長なことを怒鳴って、急いでふたりを中に入れた。その夜は恐ろしく冷えた。 「君の怪我を見たあと、ピーターの腕に包帯を巻いて、それで気づいた。頭が、この子たちの頭がないって」  ノーマンはそう言って、そばにいる金属の爪を撫でた。 「思い出したんだ。この子たちがいなければ、君は生身の人間だ。守ってくれるものが何もない」 「それで、自分は大丈夫だから、と」 「君はこの街に必要だ。それに、君が死んだらみんな悲しむ」  ノーマンは友人を見つめる。笑った顔が好きだった。優しい声も、温かくて大きな体も、彼を形作るものすべてを愛している。それなのに、彼は今、今にも崩れ落ちそうなほど痛々しい表情でノーマンを見ている。 「君が眠っている間、僕は本気で自分を恨んだ。目に入るものすべてが憎いとさえ思った」  オットーが感情を剥き出しにすることは滅多にない。言葉が留めなく溢れてくる。 「確かに君は強い。他の人間には、僕にはない力がある。でもそれがなんだって言うんだ。必要とされているとかいないとかそんなもの、君が傷ついていい理由にはならない」  オットーの「子供たち」も父親の剣幕に驚いているのか、静かに首を垂れている。 「『君が死んだらみんな悲しむ』? 自分の葬式を見たことがないくせに。息子がだれだけ傷ついていたか知ってるのか? 僕が、どれだけ……」  そこまで言うと、オットーは何かを耐えるように目を閉じた。 「もしかして、怒ってる?」 「ここが病院じゃなくて、君が怪我人じゃなかったら殴ってた」 「それは勘弁してほしいな」  そう言って笑みをこぼすノーマンを、オットーは訝しげに見つめる。 「話を聞いていたか?」 「もちろん」 「反省してる?」 「してるしてる。僕をここまで反省させるのは君くらいだ」  オットーは首を振って視線を逸らした。この頑固な友人を説得するのは無理だと諦めたらしい。  立ち上がって病室から出ていこうとする友人に、ノーマンは声をかける。 「オットー」 「ん?」 「もうしないよ」  扉の閉まる音が聞こえた。話し相手がいなくなったノーマンは、手元にある本の表紙をめくる。