『中国魅録 「鬼が来た!」撮影日記』(株式会社キネマ旬報社、2002年)での個人的なポイントや気になった箇所などのメモです。

【個人的チアンさんかわいいポイント】 ・血糊が目に入って不機嫌なチアンさん ・朝弱いチアンさん(重役出勤。誰も起こさない) ・どたどたサッカーするチアンさん ・馬乗ってどっか行っちゃうチアンさん ・サッカーのやり過ぎで腰を痛めて「明日シュートできるだろうか」と心配するチアンさん(ねぇ、撮影は?) ・体力なさすぎるチアンさん ・独裁政治なチアンさん(この人に頼めば大概なんでもできる) ・耳が滅茶苦茶いいチアンさん(日本語の台詞でも詰まったらすぐに間違えたのだとわかる) ・なぜか親戚を現場に呼ぶチアンさん(大体中国人スタッフは家族を連れてくる) ・撮影に夢中で飲まず食わずなのになぜか痩せないチアンさん

【本文で思わず2度読みした箇所の引用】  新橋にある徳間ジャパンの本社で会った姜文は、ベルリン映画祭金熊賞作品「紅いコーリャン」で見た印象よりはずいぶんと朗らかな人物に見えたのだった。何よりも、思っていたよりふっくらしたその頬が、出会う人にソフトな印象を与えていた。しかし、フチの細い眼鏡の奥の、愛嬌に満ちた目が終始冷たく光っていたことは忘れられない。(p.10)

中国人たちの話では、陳凱歌(言わずと知れた巨匠。「始皇帝暗殺」など)、張藝謀、姜文という3人の監督を比べると、陳凱歌が最もスクリプトに忠実な日本的撮影法を用い、中間が張藝謀、そして一番行きあたりばったりの気まぐれな撮り方をするのが姜文なのだという。(p.94)

その後近くのホテルで汚職腐敗役人たちとヘドの出るような食事会をする。飯はまずまずだったが、役人たちの浮かれポンチなイッキイッキの馬鹿な飲み会になぜ付き合わねばならないのか。姜文もさすがに最後は苦笑いしていた。(p.124)

帰ってきたら当然のようにシャワーのお湯が止まっていたので〔中略〕、姜文に泣きついたら早速お湯が出る。恐ろしいほどの一円体制である。この国は天皇制なのか? いや、この男はここで天皇以上の政治を展開しているのだ。(p.145)

今日、血液型の話になり、姜文は一発で私をAB型だと当てた。さすがである。彼はB。〔中略〕「AB is special」と監督は私に言う。私からすれば、君の気まぐれの方が余程スペシャルなのだが。(p.174)

しかし姜文という男は、やはり偉大な監督なのだろう。〔中略〕  確かに、日本語が分からない姜文が、日本語のセリフを「意味」ではなく「音」で、あるいはリズムで聞かねばならなかったのは仕方のないことだったのかもしれない。  しかし、耳のすこぶる良い姜文にとっては、例え「意味」が分かる中国語のセリフであってもやはりまず「音」から耳に入ってきたのではあるまいか? 第一彼は、日本人俳優が言う日本語のセリフがちょっと詰まっただけで、すっ飛んできて「いま間違えたろう?」と指摘できるほどの鋭い耳の持ち主なのだ。〔中略〕  しかし姜文は、それよりも遥かに大きな動きのリズム、うねる潮流の流れのようなものでオーケストラを組むのである。〔中略〕  すなわち彼こそは確かに、遥か上空からこの映画を動かしている人物なのだった。  平面に立って、つまり役者が立っている地面と同じところに立って俳優たちを整然と並べ変える優れた監督は多々いる。しかし姜文は、役者が地面にいるのなら空間に、3次元に生きるなら4次元から我々をコントロールする怪物なのだった。しかもそれらをすべて、感性と感覚のみでやってのける(いかにもB型らしい)ゴッドハンドの持ち主だったのである。(pp.184-186)

姜文の演技を目の前で今日じっくり見たが、やや作為的とはいえなかなかの声のトーンで人を静まらせる芝居をする。いや、やはり大した男である。(p.203)

この招待所の中で「気まぐれ王座決定戦」をしたら、きっと優勝が「姜文」、準優勝が「お風呂のお湯」となるだろう。(p.206)

例の農民の反乱である。何でも、このロケセットは2つの村の稜線にあたっており、ロケが終わったあとに映画村になるこの場所の利権を巡って、双方の村が利益を要求する衝突が絶えないのだという。〔中略〕  だが、斧を持ち歩く姜文の付き人の劉希亮が上品な紳士にさえ見えてくるこの野蛮な動物たちに、監督は一応真面目に対応している。(pp.209-210)

赤パンが例によってへべけれになり訳の分からないことを言っている。この映画にかかった金は、おまえの入院で増えてどうたらこうたら。しかしその先を姜文が遮った。ひどく苦々しい顔で「もうそんなこと言うな」と言っている。(p.212)

だとすれば、彼はやはり爆発的に偉大な演出家、いや偉大なオーケストラの指揮者ということになるのだろう。大きく我々の骨組みを建て込み、細かく演出を施し、なおかつ自分自身は映画に出演している。ちょっとやそっとでは両立できないこの不可侵な領域どうしを、姜文という偉大なカリスマは縦横無尽に、アクロバティックに駆け抜けたのだった。しかも半年間ずっと。(p.233)

それは、「鬼子来了」という映画は、モニターの前とキャメラの前とを血だらけのメイクをしながら行ったり来たりした、ただ1人の天才監督の「演出」によって紡ぎ出された奇跡であるということだ。そして、何の助言もしないスタッフに囲まれながらもキャメラの前で爆発的パワーを示しえた、たった1人の天才俳優の「演技」によって表現された奇跡であるということなのだ。私は、姜文という男があのパワフルな演出をし続けながら悲運の農民という大役を全うしたことを、やはりもう一度心から褒め称えずにはいられない。〔中略〕  だがそれ以上に、あれだけ自分の能力と差があるスタッフを何十人も引き連れて、キレもせず隠れもせず諦めもせず、姜文はたった1人で知的作業を完全犯罪的な緻密さでこなし、人間の究極のパワーのようなものも野獣の恫喝のごとく画面の中に映し出しきった。なおかつ自分の演技には自分自身で責任を取って調理し、それをすぐに冷凍保存して監督業へと舞い戻り、再び我々俳優と相対する時はそれを瞬時に解凍して熱き血潮をほとばしらせた。彼こそは、主観と客観の危うい橋を命綱なしに100篇も往復し、映画の空間の隅から隅までを、遠くから引いては望遠鏡で眺め、近づいては虫眼鏡で覗き、あらゆる次元の支配へとつなげていった全知全能の神だった。地球の上に現存する1メートル80そこそこの人間でありながら、銀河系全体を右手の中にスッポリ収めている巨人のような現人神なのだった。  だが不思議なのは、現場で一緒にやっている時はそんな彼の真のパワーを彼は微塵も感じさせなかったことかもしれない。  私は彼のような男を日本で見たことがなかった。抜けてるのか詰まってるのか摑みどころが一切なく、素直なのかシニカルなのかまったくランダムで、それでいてあとからあとからこっちの身体にアザができて実は色々なパンチを打たれていたことに気づくような、力強い幽霊みたいな男だった。いま考えれば考えるほど、「鬼子来了」で暴力的なまでのパワーをスクリーンから炎のように放出させたのは、やはり姜文という男の、どこまでがウソで本心なのか分からないこの狡猾な「演出」と「演技」の絶妙なバランスだったに違いない。(pp.254-255)

中「姜文にね、香川君がね、あの時すごく辛かったって言ってたって話したのよ」 香「いやほんと」 中「そしたらね、姜文が言ってた。『あー、オレは人間という奴がどこまで辛い状況に耐えられるか試してたんだ。これがまた見てると意外に面白いんだ。でも彼らはよくあそこまで耐えたよ。ん。よくやった。人間って大したものだね。結構色んな状況に耐えられるものだね』だって」 澤・香「……」 中「つまりね、香川君は、モルモット」 香「へ?」 中「いや、君たちはただの、姜文のモルモットだったの! チュウチュウ!」 香「……」 ※香川照之さん、中井貴一さん、澤田謙也さんの会話(p.256)

【補足】  中国にはよく食べる方が多いんだとか。ドニーさんやチアンさんもローグワンの撮影中ガツガツ食べていたのでしょうか…?