ビクターと執事さん。

黒を基調とした室内では甲高い金属音だけが響いていた。今は昼、しかもこれといって事件もない週の中ほど。みんなそれぞれの生活へ戻り、普通の人間として仕事をしたり、貧困にあえぐ村人のため零下の海に潜ったり、家族や友人と過ごしている頃だろう。しかし「ビクター・ストーン」としての人生を失った青年は、静かなケイブでただひとり、無心に手を動かしていた。  最近、彼はガレージに籠りっきりだった。ここは落ち着く。静かだし、気心の知れた友人(と言ってもナイトクローラーやフライングフォックスなどの車両や機械類のことで、恐らくビクター以外の人間は友人と呼ばない)もいる。居心地がいい。何よりここにいると、時折思いがけない「ご褒美」が与えられた。 「ビク、まだ作業していたのか」  固い靴音を響かせ、入ってきたのはここの主であるブルース・ウェイン。相変わらずの無表情、手にはカップがふたつ載ったトレーを持っている。 「少し休め」 「そうする」  ブルースはトレーをテーブルに置く。カップからは茶葉のよい香りが漂っていた。黄金色に輝く液体を、ビクターはまじまじと見つめる。 「今日はコーヒーじゃないんだ」 「取引先から頂いてね」  紅茶に詳しいほうではないビクターにも、それが値の張る品であることはわかった。熱い液体に口をつける。 「アッサムだ」 「アッサム? インドのお茶だったか?」 「ああ。旅行に行っていたらしい」  強烈な甘みが口いっぱいに広がる。香りも強い。  ビクターはブルースと過ごすこの時間が好きだった。特に会話はない。ブルースは物静かな男だし、ビクターも騒ぐタイプの人間ではないからだ。しかしこの無言の空間はビクターにとって不愉快なものではなかった。それにブルースは休憩がてらよくこうして上質なコーヒーや紅茶、決して安くはないであろうクッキーやチョコレートなどを持ってきてくれた。この「ご褒美」はビクターの楽しみになりつつある。 「アッサムか。ミルクティーにするとおいしい」 「好きなのか?」  ブルースの意外そうな顔に、つい笑みが零れた。大学の友人たちも、ビクターが甘い菓子や飲み物を手にしていると驚いた顔をして、「甘いものが好きそうには見えない」と口々に言った。練習が終わったあと、よくみんなでダイナーに寄ったり、コンビニで買い食いなんてしたものだ。彼らはみな、ビクターは死んだものと思っている。ダイナーでの食事も買い食いも二度とできない。 「ミルクティーにしたいな」  ぼんやりとカップの中身を見つめるビクターを見て何かを察したのか、ブルースは彼にしては珍しい明るい声を出す。 「アルフレッドに持ってきてもらおう」 「ここまで? 怒られないかな」 「大丈夫さ」  ブルースは備えつけられたベルを鳴らした。

やれやれ、世話の焼ける。  砂糖とミルクポットを載せたトレーを持って、アルフレッドはガレージへ向かう。  しかし珍しいこともあるものだ。アルフレッドの主人は甘いがものを好んで飲む人間ではなかったはずだ。少なくとも、彼が知る限りでは。  ガレージには主人の他に、もうひとり人影があった。 「おや、ストーン様も一緒でしたか」  一際高い声を上げたものの、アルフレッドにとってそれは格段驚くべきことではなかった。このところブルースとビクターはよくガレージに籠り、何をしているのかは知らないが、大方機械弄りに精を出しているのだろう。主人に趣味の合う遊び相手ができたことは嬉しいが、些か不健康ではないかとアルフレッドは心配していた。もう少し外の空気を吸ってほしい。  ビクターは軽く会釈し、アルフレッドからトレーを受け取った。 「紅茶に入れるのですか」 「ミルクティーにする」  主人はどことなく楽しげに見える。成程、今日はアッサムだったか。  ブルースはがレージへ向かうとき、必ず貰いもののコーヒーや菓子を持っていった。貰いものと言っても、当然安価な代物ではない。実業家であるブルースの元には、毎日多くの贈答品が届く。ブルースとアルフレッドだけでは消費できないのだ。何より普段顔色が滅多に変わらないビクターがおいしそうに菓子を摘まんだり、物珍しそうな顔で芳醇な香りのコーヒーを飲む姿を見ることが、ブルースの楽しみになりつつある。 「ミルクはどれくらい入れるんだ?」 「少しでいい」 「砂糖は?」 「俺はたっぷり入れる」  そう言って、ビクターは何杯も砂糖を掬い、カップの中へ落としていく。血糖値が気になる年齢となったアルフレッドには考えられない所業だ。若さとは恐ろしい。  実を言うと、アルフレッドはこの金属に覆われた青年が少し気になっていた。大人になろうと必死に背伸びをする青年。その姿がかつての彼の主人と重なる。だからブルースがビクターとの距離を測りかねていたときも、その後急速に距離を縮めたときも、アルフレッドは当たり前のことだと思った。似ているものは反発し合うが、一度ピースが合えば離れがたい存在となる。  目の前で慎重にミルクを注ぐ彼の主人も、貴重な友を得た幸運な人間のひとりだったのだろう。 「こんなものか」  カップの中の液体が優しい香色に染まった。ブルースはそっと口をつける。 「甘いな」 「それはそうでしょう。ミルクティーですから」  液体は主人にとって甘すぎるものだったらしく、ブルースは目を瞬きさせた。年上の友人の子供っぽい仕草にビクターは笑い、執事もたまにはこんなあどけない主人もよいものだと微笑んだ。