学生時代のノーマンとオットー。

視界の端にきらりと光るものが映った。オットーは眩しさに思わず顔を顰める。  男がひとり近づいて来ていた。肩まで伸ばした金髪が揺れている。眩しさの正体はこれだったらしい。 「悪いね、読書の邪魔して」  男は屈託なく笑った。 「そっちにボール飛んで来なかった?」 「ボール?」  オットーは辺りを見渡した。広場にある大きな木は、彼のお気に入りのスポットだった。今日のように天気がよい日は、よく木陰で本を読んでいた。 「あった」  男が野球ボールを拾い上げる。 「ボールに気づかないくらい本に熱中してた?」  彼はじっとオットーを見つめた。 「葉っぱついてる」  男が腕を伸ばす。長い髪からふわりと甘い匂いが漂ってくる。 「君、知ってる。ハワード教授の物理学を取っているだろ。僕も同じ授業を受けてるんだ」  何人かの学生がこちらに向かって声を上げている。どうやら、一緒に遊んでいた仲間たちらしい。 「またね」  そう言って、男は駆け出した。足を踏み出すたびに、金の髪が宙に広がる。 (まるで羽が生えているみたいだ)  オットーはそのうしろ姿から目を離せなかった。

机に散らばった筆記用具を片付けていると、突然目の前に影ができた。 「やあ」  顔を上げると、先日の野球ボールの男が立っていた。 「やっぱりこの授業にいたね」  彼はにっこりと微笑んだ。オットーと再会できたことを、純粋に喜んでいるようにも見えた。 「僕のこと忘れちゃった?」 「いいや」  オットーは冷静に答えるよう努めた。広場では気づかなかったが、男は淡い青色の目をしている。 「この間のボールの子だろ」 「うん。覚えていてくれたんだ」  すっと右手が差し出される。 「ノーマン・オズボーン。よろしく」  オットーは慌ててその手を握り返した。ひんやりとした細い指が絡みついてくる。 「オットー・オクタビアス」  こちらの体温のおかげで、男の手はすぐにぬるい温度となった。

そのままランチに誘われたので、一緒にカフェテリアへ向かう。並んで歩いて気づいたが、ノーマンは随分小柄だった。薄い肩の上で、髪が揺れている。 「いつもは誰と食べているの?」 「大体はひとりで」  オットーはカフェテリアをほとんど使ったことがない。適当に買ってきたもので昼食を済ませて、そのあとはずっと図書館に籠もっている。友人がいないわけでもないが、自分が活発的な人間でないことは自覚していた。 「じゃあおすすめのメニュー教えてやるよ」  対して、目の前の男は何もかもが自分と違っていた。教室からカフェテリアまでの道中、何人かの生徒がノーマンに声をかける。 「みんな君の知り合い?」 「うん」 「すごいな」  ノーマンは目をぱちりと瞬かせた。 「君だってすごいよ。よく授業で答えているだろ。だから覚えてたんだ。先生たちもみんな言ってるよ。すごく優秀な生徒だって」  オットーは笑って受け流そうとしたが、ノーマンがあまりにも真剣な目をしていたので、結局何も言えなくなってしまった。

ノーマンは友人が多い。社交的で明るい彼のそばには、いつも誰かいる。 (それなのに、どうして僕といるんだろう)  オットーは正面に座る友人の顔をちらりと見た。課題として出された大量のレポートと格闘する彼は、こちらの視線に気づいていない。  ノーマンはオットーを優秀だと言ったが、彼も負けず劣らず秀才だった。二学年下だというのに、知識量は引けを取らない。年下であることを忘れそうになることもある。 「オットーはやっぱり大学院に進むの?」 「うん。でもその前にどこかへ就職するかも。お金を貯めないといけないから」 「僕は多分このままストレートで進むかなあ」  ノーマンの家は裕福だった。 「いつか会社を作りたいんだ。技術者による技術者のための会社。誰にも邪魔されず、好きなことを好きなだけ研究できる。おもしろそうだろ? そのために、今のうちから人脈を広げておかないと」 「それで僕に話しかけたの?」 「そうかもね」  ふたりは笑いあった。 「でも、それだけじゃないよ。おかしなこと言うようだけど初めて君を見たとき、なんだか長い付き合いになりそうだなって思ったというか」  オットーは黙って友人の言葉を待つ。 「それに君といるとすごくほっとするから」  ノーマンは誤魔化すように話題を変えた。 「オットーの夢は何? 将来どういうことをしたいとかある?」 「ここで言うのは恥ずかしいなあ」 「僕ばっかり恥ずかしい思いをしてずるいじゃないか!」  仕方なくオットーは口を開いた。親にも担当教諭にも友人たちにも、誰にも言ったことはない。しかし、ずっと胸の内に秘めていた夢だった。 「僕は……僕はエネルギー関連の研究をしたい。永久に供給量が減ることはない、しかも有害物質も出さない。そんなものがあれば、世界はきっとよくなる。みんなが平等に豊かになることができるんだ」 「すごいね……」  ノーマンは感嘆のため息をついた。馬鹿にされることはないにしても、呆れられるか、あまりに壮大な夢に戸惑わせるのではないかと内心怯えていたオットーは、友人の意外な反応に目を丸くした。 「君なら絶対にできるよ。絶対。あ! 僕の会社で一緒に研究しようよ」 「それは……」  それは、なんて魅力的なアイディアだろうか。自分のやりたい研究を好きなだけ続けることができて、しかもノーマンと毎日会える。こうしてずっと、他愛ない話をすることができる。  オットーは数十年後の自分たちを想像してみた。大きなビルの中にはたくさんの研究員が歩き回っている。その中にオットーはいた。彼には個室が与えられている。机の上には書類が散らばっていて、本棚はこれ以上入りきれないくらいぱんぱんに膨れ上がっている。ノックの音が聞こえて、顔を上げると、親友が立っている。あまり根を詰めるな。ランチでもどうだ。今日は奢りだ。君のおかげで例のプロジェクトがうまくいきそうだ。ふたりは並んで部屋を出る。 「それは、とても素敵だね」  オットーはそう言って笑った。

夢を見ていたような気がする。  目を開けると、絵の具が滲んだように視界が不明瞭だった。オットーは思わず顔を顰める。  このところ、視力が著しく低下していた。あの実験以来、サングラスが手放せない。太陽に焦がれた結果、太陽に目を焼かれるなんて、なんたる皮肉だろうか。  昨夜隣に感じていた体温が、今はない。辺りを見渡すと、探していた人物はぼんやりと窓を眺めていた。カーテンの隙間から太陽光が漏れている。 「ノーマン?」  友人はゆっくりと振り返った。ただでさえ薄い体が、食欲不振のせいでさらに細くなってきている。首筋には太い血管が浮き出ており、まるで死体のようだと思った。 「一晩中起きていたのか」 「眠れなくて」  ノーマンは弱々しく笑みを作った。 「次に目を覚ましたら、部屋がめちゃくちゃになっていたとか、あのときみたいに誰かを殺していたらとか、そんなことばかり考える」  例の薬は、あくまでのノーマンの強化された能力のみを打ち消すものだった。彼が持つもうひとつの顔は精神の問題であり、短期間で治療できるものではない。そもそも治療できるのかさえわからない。  もしかしたら、とオットーはときどき考える。もしかしたら、あのとき死なせていたほうが、彼は幸せだったのではないだろうか。これ以上罪の意識に苛まれず、失ったものの多さに嘆かずにすんだのではないか。 「それでも少し眠ったほうがいい。万が一何かあっても、『この子たち』がいる」 「それは、頼もしいね」  四本のアームは返事をするように首をもたげる。 「君には迷惑をかけてばかりだな」 そう言ってもたれかかってきた友人の髪は、初めて会ったときのような金の色ではない。長年雨風にさらされた金属のような、銅色をしている。カーテンから差し込む太陽の光を受けて、鈍く輝くそれは、オットーの目を焼くこともない。 「住む場所まで提供してくれて、本当に感謝している。でもどうしてここまでよくしてくれるんだ?」 「それは」  もうオットーには、この年老いた友人しか残されていないからだ。歴史が変わったからといって、すべてがもとに戻るわけではない。妻はいない。夢は潰えた。それはノーマンも同じだった。彼の会社も、たったひとりの息子も、帰ってこなかった。  結局、彼らは取り残されてしまった。置いていかれた者は置いていかれた者同士、一緒にいたほうが都合がいい。 「ここまで来たら最後まで付き合うさ」  オットーは優しく微笑んだ。 「それに君との生活は悪くない」