オームくんとバルコがお話してるだけ

オーバックス王の荘厳な葬儀の場面、遠巻きに見かけた彼の姿は、どの側近よりも父親に忠実だった。海溝の化け物の生贄になった女王、その高貴な面差しを受け継いだ王子。同伴した娘がどんなに声をかけても、礼儀正しく微笑むばかりで、固く表情を変えなかった。  まるでお人形ではないか、と思ったのをよく憶えている。 「苦しくないか?」  気づけば人形のようなその子に問いかけていた。彼は不思議そうに首を傾げる。 「王に個は必要ですか」  そのとき、ネレウスはひと回り以上も年若い青年に、初めて畏敬の念を抱いた。 「貴公の国は安泰だな。あのような清廉な方が次期国王なのだから」 「ええ」  隣に控えるバルコは、複雑そうな表情で青年を見つめている。 「しかし私は、大切なことをお教えし損なったような気がしてならないのです」

バルコが指定されたハンバーガーショップに着くと、すでにオームは席にいた。おおよそ元国王には似つかわしくない安物のTシャツにパーカー、しかし着心地はよさそうである。今日は気温が非常に高く、機能性を重視した服装を選ぶほうが正解だろう。ハンバーガーショップは海沿いにあり、湿った風が窓から流れ込んでくる。ビーチではしゃぐ人々の声が店の中まで聞こえてきた。  席に着くなり、オームはぐっと何かを押しつけた。 「これは?」 「東の大陸土産だ」  それは翡翠の玉がついた簪だった。 「なんて美しい……。お心遣い痛み入ります」  心の底から嬉しそうに微笑むバルコに対し、なぜかオームは憮然とした様子だった。 「髪を切ったことを忘れていた」 「これをつけるためにまた伸ばそうかしら」 「気を遣わなくていい」 「気なんか遣っておりません。私がそうしたいからそうするのです」  バルコは簪を大事そうに鞄にしまい、「何になさいますか」とメニューを広げる。ひと通り注文を済ませ、旅先でのことを話しているうちに料理が届いた。 「こうやって食べるんだ」  オームは厚手の紙でハンバーガーを包み、そのまま一気にかぶりついて見せた。 「遠慮しないで一気に食らいつくことがポイントだ。そうしないと具材がこぼれてしまう」  バルコはオームの説明を頷きながら聞いていた。もちろん、地上での生活が長い彼は、ハンバーガーの食べ方も知っている。しかし、それをあえて口にはしなかった。そして言われたとおり、躊躇なくハンバーガーに食らいつく。 「オーム様のおっしゃるとおりにしたら、うまく食べ進めることができました」 「そうだろう」  それまで無表情に近かった男の顔が、ようやく少しだけ緩む。嬉しそうな顔は、幼いときから何ひとつ変わらない。いつまでも稚魚のような存在だったのに。 「ご遊学は、いかがですか」 「うん、いろいろ見て回った。地上も案外捨てたものではないな」  オームはグラスをテーブルに置いた。 「華胥、という言葉が大陸にあるらしい」 「かしょ?」 「古くから伝わる伝説の国。為政者はなく、人々に愛憎や欲望もなく、みな長寿であるという。まさに理想郷だ」  人々は自然のままに生き、争いは起きず、殺し合いもない。まさに理想の国。 「それは、息苦しそうですね」  返ってきたのは意外な言葉だった。 「息苦しい?」 「ええ。私のような俗な人間には耐えられないかもしれません」  俗な人間、とはバルコから最も遠い人物像だとオームは思っていた。名誉や利益など興味はない。そうでなければ謀反など考えないだろう。 「確かに、物欲や憎悪はないほうがいい。己を高め、精練に励むのはよいことです。でも世の中には、どうしたって愚かな者がいます。力の出せない者だっています。力の出せないときだってありましょう。決して私欲に溺れず、勤勉で有能でなければならない。そんなことはみんなわかりきっていて、そうしたいと望んでいる。でもうまくできない。そういう者たちの居場所はないのでしょうか。いいえ、オーム様。私はあなたを責めているのではありません。ただ、私も答えを探しているのです。理想郷という答えを」 「……俺は理想の国を作りたかった」  かつての王は目を閉じた。まるで理想とした国を思い描くように。 「堅固に盤石によって支えられている国。他の国が羨むような、いや他の国の先頭に立つような国だ。争いもなく、一点の腐敗もなく、ひとつの指針のもとに動き、栄華を極める。そんな国だ。それが父の願いでもあった。——なあバルコ、俺は間違っていなかったよな?」 「ええ、もちろん。あなたは何も間違っていません。でも間違っていないことが、必ずしも『正しいこと』とは限らない」  驚いたようにオームの双眸が開かれる。しかし言葉とは裏腹に、かつての師の目はひどく優しく、そして悲しげだった。あの目には覚えがあった。裏切りを糾弾したときも、同じように悲しみに染まった目でオームを見つめていた。あの目で見つめられると、自分がまだ愛されているのではないかと勘違いしそうになっていやになる。 「では聞くが、お前の理想の国とはなんだ」 「民が飢えない国です」  バルコはさらりと言った。 「それだけか」 「それだけ? 飢えないほどの食料があり、寒さを凌げる屋根がある。国としてこれ以上に素晴らしいことがありますか」  へらへらと笑う好好爺を、オームは苦々しく眺める。 「私は街のずっと外れのほうの出身でしたが、貧しい生まれでね。毎日食べるのにやっとで、そうすると国の政も指針もあったものじゃない。周りの大人たちもそうでした。……飢えは惨めですよ、この上なく」  初めて聞いた。バルコはこれまで、自分の身の上話を一切しなかった。 「内緒ですよ。アーサーはもちろん、あなたのお母様にも話したことがありません」 「本当に?」 「ええ。別に秘密にしていたわけではありませんが、お話しする機会もなかったものですから」  兄が知らない話を知っていると聞くと、なんとなく「勝った」という気分になる。 「他には?」 「そうですねえ、ちょうど十九の頃に城に召し上げられ、あなたのお祖父様の小姓となり、周りのお世話をしました。お母様と初めてお会いしたのもそのときです。お母様は七つになったばかり。それはそれは……」 「どうだった?」 「それはそれは、元気いっぱいで……」 「元気」 「暴れん坊のシャチ……」 「シャチ」 「あれに比べればアーサー様はクマノミ……」 「クマノミ」 「オーム様に至っては稚魚……」 「稚魚!?」  とんだ言われようである。 「まあ、とにかくめちゃくちゃな方でしたねえ。だから地上まで駆け落ちしたんでしょうがねえ。ははは」 「俺はまったく笑えないんだが……」 「対して、オーバックス様は思慮深い方でいらっしゃいました」  思わず肩が揺れた。気づかれないようそっとバルコを盗み見るが、彼は相変わらず穏やかな表情をしている。 「毎日彼女の圧に押されて、でも芯はしっかりした方でした」 「そうだったのか」 「ええ。だからお支えできなかったのは、私の一生の瑕疵です」  今更そんなことを言うのか、とも思ったし、お前のせいではないのに、とも思った。しかし、現時点では後者の思いのほうが勝つ。オームの父は、バルコひとりでどうにかなるものではなかった。それは最も近しいところにいたオームがいちばんよくわかっている。  しかし、感情をぶつけやすい相手もまたバルコであった。彼はそれがわかっているからこそ、このように言ってくれているのかしれない。 「父が病床について、もうそろそろ危ないだろうという頃、ゼベルの白銀のサンゴが見たいと言って騒いだことがあっただろう」 「ああ、ありましたね」  それはゼベルでしか採れない貴重なサンゴだった。貴人御用達の高級なもので、しかも春にしか採取できない。そのとき、季節は秋。だが、オーバックスはどうしてもそれが見たいとせがんだ。 「自分は次の春までは生きていないだろうから、と。それでバルコがネレウス殿に直談判しに行っただろう。わざわざ頭まで下げて」 「でも、間に合わなかった」  ネレウスは当然、採取を早められるわけがないと追い返したが、あまりにもしつこいバルコにとうとう折れ、比較的大きい株を渡してやった。しかし、バルコがサンゴを抱えてアトランティスに帰ってくる頃には、オーバックスはすでに息を引き取っていた。  サンゴは王と一緒に埋葬された。「あんな縁起の悪いもの返さんでくれ」とネレウスが言ったからだ。恐らく彼なりに、友人であったオーバックスを悼んでのことだったのだろう。  あの日。  葬儀のあと、誰もいなくなった広間に置かれた棺の前で、バルコは静かに泣いていた。母が処刑されたときすら、涼しい顔をしていたという彼が。海では涙はすべて流れるが、多分あれは泣いていたんだと思う。押し殺したような嘆きが聞こえてきたからだ。でも、なぜ彼が悲しむのか、オームには理解できなかった。むしろ信じたくなかった。父はバルコをそばには置いたが、決して重用はしなかった。なのになぜ、父を憐れみ、死を悼んでくれるのだろうか。彼にとってそんな価値が父にあるのだろうか。オームにはバルコがわからなかった。  今なら、聞けるだろうか。  いや、彼らには彼らにしかわからない繋がりがある。無碍に踏み込んでいいものではない。  もしかしたら、父は妻ひとり、息子ひとりどうにもできない「無能」な自分を恥じて破滅したのではないだろうか。そしてバルコは、主ひとり助けられない「無能」な自分を今でも恥じ、悔いているのかもしれない。  だとすれば人間はなんて、ちっぽけで意地汚くて悲しい生き物だろう。そしてだからこそ、何度でも足掻いて変わることができる。 「どうしたのですか?」 「いや、ここが華胥の国ではなくてよかったと思ってな」 「そうですよ。私なんかが行ったら三回は国外追放を受けそうです」 「バルコはすぐ無茶をするから」  一見、穏やかそうに見えて破天荒なバルコなら、本当に華胥の国を追われそうである。 「しかし、よい時間を過ごされているようですね」  オームを見つめる顔は王子、王子と言って追いかけていた頃となんら変わらない。 「大きくなられた」  その目があまりにも優しく、頬に集まる熱を悟られないようにオームは顔をそらした。 「まさか、もういくつだと思っているんだ」 「アーサー様はまだ伸びていらっしゃるようですが」 「本当か。化け物かあいつは……」  目を細めて笑う彼の目、あれはまさしく翡翠の玉の色であった。