アトランナ様追放後くらいのバルネレ。

自分の主が処刑されたというのに、バルコはいつものように涼しい顔で出迎えてくれた。 「陛下がお待ちです」  意外なほど落ち着いた態度に、ネレウスはなんと声をかけてよいかわからず、黙ってしまった。本当は、この場にも姿を現さないだろうと思っていた。彼の女王への厚い忠義は、目に見えて感じるものであった。だからこそ、敬愛する麗しの女王を失い、絶望に打ちひしがられているのではないかと、ネレウスは考えていた。  いや、もしかしたら、いつなんどきでも冷静さを失わないこの男が、悲しみ、怒り、悲観にくれる様を目にすることができるのではないかと、僅かに期待していたのかもしれない。  落ち着き払ったバルコとは対象的に、オーバックスは憔悴しきっていた。常に整えられていた髪は乱れ、目の下にははっきりと隈がある。 「友よ」  ネレウスは腕を広げ、すっかり痩せた友人の体を抱いた。 「話は全部聞いた」 「私は……仕方がなかったのだ。妻は私を、この国を裏切った」 「ああ」 「あの女は地上の汚れた人間と交わったのだ……! 私はそれが許せなかった」 「わかっている」  妻を海溝の化け物共に捧げたというのに、オーバックスはまるで自分こそが生贄なのだというように震え、涙を浮かべていた。その様子を、バルコはなんの感情も読めない目で見つめている。 「オームが私を見る目が、あの女と同じ色なんだ。私はあの子が恐ろしい。あの子は亡霊だ。海溝から私の玉座を脅かしに来たのだ」 「そんなことは……」 「お前に何がわかる! 妻に裏切られ、子に怯える私の心がお前にわかるものか!」  ネレウスは心の底から友人を哀れに思った。息子を亡霊と呼び、恐れる男を救うことなど、最早不可能かもしれない。ネレウスはちらりとバルコに視線を向けた。彼は静かに頷くと、その場を離れた。 「何か飲むものを持ってこさせよう。そのほうが落ち着くだろう」  ネレウスは友人の体から手を離すと、バルコを追った。彼は部屋を出てすぐのところに立っていた。 「それで、オーム王子は」 「王子はご無事です。今は世話係と一緒にいます」  ただ、とバルコは顔を曇らせる。 「王子の周りは陛下の息がかかった者たちに固められています。私も目を離さないようにはしていますが、今は陛下のおそばを離れないことが先決かと思い、そうするとなかなか手が足りず」 「仕方あるまい。オームのことはこちらでもなんとかしよう。見聞を広げるためにと称して、ゼベルに呼ぶのもいいだろう」 「お心遣い感謝いたします」 「それで、お前は大丈夫なのか」  バルコはその言葉に答えず、黙って微笑んだ。部屋に戻り、盆に載せた酒の瓶とグラスを置くと、彼は去っていった。恐らく、また扉の前で待っているのだろう。彼は「待て」と言われれば、一昼夜であろうと同じ姿勢のまま立ち続ける。  持ってきた酒を二杯ほど空にする頃には、オーバックスも落ち着きを取り戻していた。 「お前がいてくれて助かった」  オーバックスは酔いが回ってきたためか、次第に饒舌になっていった。泣き喚いたかと思えば、突然陽気に語りだす。ころころと態度を変えるこの状況こそが、彼の不安定さを表しているようで、ネレウスは友人の明るい声を聞くたびにつらくなった。 「何かあればまた飛んでくるさ。それにここには頼りになる参謀殿だっているじゃないか」 「バルコか」  オーバックスはふんと鼻を鳴らした。ネレウスにとって、その反応は予想外のものだった。 「あれはアトランナが死んだことを聞かされても、涙ひとつ見せなかった」  オーバックスは冷たい目でグラスを見つめ、口元を歪める。 「それどころか、自分の主を殺した男におとなしく付き従っている。やはり所詮は下賤の生まれだな。品もなければ節操もない。己の保身にしか興味のない男だ」  唖然とするネレウスの横で、友人は穏やかな笑みを浮かべた。 「その点、お前は信頼のおける男だ。私はいい友人を持った」  ネレウスは何も言えなかった。

部屋を出ると、先程と同じようにバルコが立っていた。無言のまま行き過ぎると、彼もまた何も言わず、うしろについた。 「門の前まででいい」 「お迎えは」 「来るときは騎獣でふたりつけたが、帰りは呼んでない。たまにはひとりで走るのも悪くないだろう」  ふと、オーバックスの声が蘇った。 「女王が海溝に沈められたときも泣かなかったそうじゃないか」  返事など最初から期待してないネレウスは、そのまま言葉を続けた。 「相変わらず冷たいやつだ。俺が死んでも、お前は泣いてくれないだろうな」 「あなたは死なせません」  いつの間にか横に並んでいたらしいバルコに視線を向けると、彼はこちらを見上げ、微笑んだ。 「少なくとも私が生きているうちは」  ネレウスは奥歯をぎゅっと噛んだ。そう言って、結局こちらが望むものなど何ひとつ与えてはくれないのだ、この男は。