「髪を伸ばしなさい」 父の言葉に、隣に立っていたバルコがぎゅっと唇を噛んだ。 「これだけ美しい金の髪なんだ。伸ばさないともったいない」 「ですが稽古の、邪魔になるかと」 「結えばいい。きっと母親似の、美しい髪になるだろう」 オームはなんと答えればよいかわからず、曖昧に微笑んだ。不用意に言葉を発し、父の機嫌を損なうわけにはいかない。 「お前も鬱陶しく髪を垂らしているじゃないか。なあオーム、母上のように結い上げてみたいだろう」 そう言って、父はバルコの長い黒髪を握り潰した。
ここでは父の言うことが絶対であり、決して逆らえない。 髪を切らないと言うと、理髪師は困ったように頭を掻いた。 「殿下」 オームに何かあると、すぐにバルコが呼ばれる。彼は長い指で金の髪を梳いた。 「無理して伸ばす必要はないのです」 「でもお父様が」 「では、揃えるだけにいたしましょうか」 バルコは父のように己の意見を押し通すことはせず、かといって他の使用人のようにオームの言うことを何でも聞くようなことはしなかった。その優しさと厳しさが心地よい。穏やかで静かな彼のそばにいると、嵐のように絶え間なく様々なものが過ぎる王宮の中でも、落ち着くことができた。 それなのに、母がいなくなってから、バルコはオームのそばを離れることが多くなった。父の横に控える彼は、常に疲れたような青白い顔をしていた。時折、目の下に痣を作ったり、頬が赤黒く腫れていることがあった。 「どうしたの?」 オームが心配そうに駆け寄るたび、彼は掠れた声でなんでもないと微笑んだ。 「全部あの女のせいだ」 父は冷たくバルコを見下ろした。 「こいつがこうなったのも、お前に寂しい思いをさせているのも、全部あの女のせいだ」 「違う。違います、殿下。聞かないで」 「違うものか! 私たちはあの女に捨てられたんだ!」 耳の奥で父の声がこだまする。
オームにとって唯一安心できる場所は、隣国の美しい赤毛の親子のそばだけだった。ここは怒鳴り声もしない。誰かの悲しい顔も見ることはない。 許婚であるメラの父にして、武芸の師でもあるネレウスは、まさに理想の人物だった。娘を第一に想い、亡き妻を今も愛し続けている。快活でよく笑い、民や臣下からも信頼されている。丸太のような太い腕、硬い筋肉で覆われた体は、決して見せかけのものではない。軍人として歴々の戦いで戦功をあげている。王としても父親としても完成されていた。 自分の父とはあまりにかけ離れていて、比べる気すら起きない。ネレウスはその大きな腕で、娘とともにオームを分け隔てなく愛してくれた。 だからオームはゼベルでの滞在期限が近づくと、決まってささやかな抵抗を示した。 「そんなにべそをかくな」 ネレウスは乱暴にオームの頭を撫でた。 「またすぐ来ればいい。私がお父上に頼んでおこう」 「本当ですか?」 「もちろん。私が嘘をついたことがあったか?」 オームは首を振った。 城に着くと、バルコが出迎えてくれた。 「お待ちしておりました、殿下」 ネレウスの顔から、一瞬表情が消える。 「いつもながら、ご足労いただき申し訳ございません」 「べつに、大したことじゃない」 小さな腕を懸命に振るメラに別れを言う。ネレウスはなぜか、バルコの顔を一度も見なかった。
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「あなたの娘と我が参謀が裏で手を組んでいたことはご存知だったか」 「まさか」 ネレウスの目は、引きずられていく罪人を捉えて離さない。 「だからあれを信用するなと言っただろう」 彼は独り言のように呟いた。 「ひとを政治の駒としか見てないような男だ」 「そう、ですね」 そう断罪するには、あまりにも多くの過去を共有しすぎた。遠征のたびに土産話を聞かせてくれた穏やかな声も、涙を拭ってくれた白い指も、震える体を包んでくれた優しい体温も、すべて嘘だったのだろうか。 オームは赤毛の王を一瞥した。罪人が部屋から連れ出された今、彼の目は何も映していない。 友好国の王。父の古い友人で、この世で最も高貴な血筋のひとり。同時に師であり、許婚の父であり、そしてオームにとって指針のひとつであった。王としても父親としても完成されていた。 それがどうだろう。他国の、自分よりもはるかに身分の低い男に心を乱されて、振り回されている。陰謀渦巻く王宮に身を置きながら、何も気づかぬほどオームは愚鈍ではない。幼い頃より、彼らの交わす視線に言葉以上の何かが含まれていることはわかっていた。 ネレウスがバルコを見つめるあの目、あれは父が母を見つめていた目によく似ている。決して手に入れられないものに焦がれて、いっそ憎んでしまいたいのに、それもできない。 (あなたもそういう顔をするのか) なぜだかひどく、笑えてくる。