なんちゃってサスペンス。 ご都合主義には目を瞑っていただきたい…。 暴力描写を含みます。 過去捏造しまくりです。 さらっとハリーが生きてます。

オットーは玄関から出ることを好まない。彼が持つ四本の腕はあまりに目立つ。だから、彼はバルコニーから外へ出る。  事故により、オットーの目は強すぎる光を受け付けない。夜は彼の領分になった。眼下に広がる街には無数の光に満ちているが、昼間の太陽と比べると取るに足りない。 「時間か」  背後からの声に振り向くと、赤いナイトガウンを羽織ったノーマンが立っていた。 「ピーターによろしく」 「ああ」 「食事を作って待ってる」 「キッチンを爆発させないでくれよ」  ノーマンは笑ったが、すぐに神妙な顔つきになり、大きな体にしがみついた。 「気をつけて」  オットーは返事をする代わりに、友人を抱きしめた。柔らかい髪から香る石鹸の匂いが鼻を擽る。  名残惜しく手を離し、オットーは四本の腕を使ってビルを下りていく。顔を上げると、バルコニーから身を乗り出すノーマンの姿が見えた。彼は毎晩こうやってオットーを見送る。小さくなっていく体を見ていると、心臓が締めつけられるようで、早く帰って安心させなければと思う。  指定された場所に行くと、ピーターがすでに待っていた。 「オットー!」  出会ったときより大人びた雰囲気に成長しているが、優しげな瞳は変わらない。オットーもようやく「大人の」ピーターに慣れてきた。とはいえ、生徒に接する教師なような口ぶりは変わらないが。 「警察の無線によると、ここから西へ三キロほどのところで強盗事件のようです」 「また盗聴か」  ピーターは肩をすくめただけだった。

今夜は幸運だった。悲惨な事件、事故もなく、勿論目の前で命が失われることもなかった。そしてふたりとも、服が焦げたり、切り裂かれたりすることもなく、同居人たちを慌てさせる必要がなくて助かったと言い合った。 「明日は仕事かな」 「ええ。朝一番に新聞社へ行かないと行けないので、気が重いですよ。でもまあ、四時間は眠れます」 「それじゃあ君の睡眠時間のために、早く解散するとしよう」  ピーターにも待っている人々がいる。今晩も無事に帰宅できることに感謝しながら、ふたりは別れた。  周りの住人を起こさないように、オットーはゆっくりと壁を登る。それでも彼の友人は、僅かに聞こえてくる物音で、バルコニーに飛び出してくる。そして見送ったときと同じように身を乗り出し、笑顔でオットーを迎えてくれる。  しかし、ノーマンは姿を見せない。部屋も静かすぎる。いつもならテレビの音や、室内を歩き回る足跡が聞こえるはずだ。  オットーは不安に掻き立てられながら、バルコニーに降り立った。 「ノーマン?」  部屋はひどい有様だった。テレビの画面はひび割れ、あちらこちらにガラスの破片が散らばっている。歩くたびにぱりぱりと何かが押し潰される音がした。皿は床に落ちて割れている。ノーマンのお気に入りだった花瓶も、ふたりで選んだワイングラスも。フライパンはひっくり返り、中に入っていたであろうサーモンが無残に転がっている。  床には赤いものがぽつぽつと落ちていた。オットーにはそれが何かすぐにわかった。血だ。よく見ると、ダイニングテーブルにも血がべっとりとついている。皿の破片や読みかけの本も広がり、とにかくめちゃくちゃな状態になっている。神経質のノーマンが、好き好んでこの状況を作り出したとは思えない。  ソファのうしろ、ちょうど死角になっているところから足が伸びているのが見えた。オットーは震えながらそれに近づく。血まみれで倒れている友人の姿が、どうしても頭にちらつく。  ソファのうしろに倒れていたのは、ノーマンではなかった。オットーはほっと胸を撫で下ろした。よく見ると服も全然違う。最後に見た友人は、白いシャツに赤いナイトガウンを羽織り、黒いスラックスを履いていた。こいつはオリーブ色の作業服を着ている。三十代くらいの男。見たことない顔だった。  オットーは携帯電話を取り出した。ノーマンが根気よく使い方を教えてくれたものだ。友人の熱意のおかげで、どうにか電話とメールくらいはできる。感覚のない指でボタンを押した。

一度家に戻ったにも関わらず、ピーターはすぐに来てくれた。部屋の惨状を見て顔を顰める。 「他の部屋は?」 「探してみたがどこにもいなかった」  ピーターはすでに息絶えた男に近づいた。 「このマークは水道修理業者のものですね」 「そういえば、ここ最近キッチンの水の出が悪かった」 「食事の用意をしている間になんらかのトラブルがあって、業者を呼んだのでしょうか」  オットーはいやな予感がした。そして、なんらかのトラブルでノーマンが持つもうひとつの人格が顔を出し、水道修理業者を手にかけてしまった。「彼」は特に理由もなくひとを傷つける。治療と定期的なカウンセリングのおかげで、最近は大人しくなり、コントロールできるようになったかもしれないとノーマンも喜んでいたが、どれもすべて無駄だったということだ。  ピーターも黙っていたが、恐らく同じことを考えているだろう。 「しかしこの散らかりようはおかしいですね。相当争ったようだ」  疑念を払拭するように、ピーターは言った。 「そもそもゴブリンなら、わざわざこの部屋から出ないでしょう。僕たちを部屋で待ち、襲ってくるのでは」  それでも疑念の否定にしては、ピーターの説は弱い。もし部屋を出て、新たな被害書を探しているのだとしたら。 「とにかく何か、行き先のヒントになるようなものを探さないと」 「財布も携帯電話も置いてある。そこまで遠くには行けないはずだ」  オットーは部屋を見渡した。いつもなら、ゆっくり食事を楽しんだあと、並んでソファに座り、テレビを見たり本を読んだりしながら、眠くなるまでふたりで過ごす。今晩もそんな夜になるはずだった。それなのに、テレビはひび割れ、ソファの下には死体が転がっている。何より、テレビの出演者を冷やかしたり、オットーの読んでいる本について説明を求める友人の姿がない。それが悲しくてたまらなかった。  本、そう本だ。  なぜ気づかなかったのだろう。オットーはダイニングテーブルに近づいた。そこに置かれた本の周りだけ、綺麗に皿の破片が取り除かれている。 「君の予想は正しいようだ」  オットーは本を手に取った。 「『ノーマン』はヒントを残してくれた」

ソファに座り、雑誌をめくっていたノーマンは顔を上げた。外から微かに物音が聞こえたからだ。  食事の準備は済んでいる。サーモンは温めるだけだし、ワインも冷やしておいた。ただ、帰ってくるには早すぎる。いつもなら、あと二時間はかかるはずだ。  ノーマンはバルコニーに出た。冷たい風が肌を刺す。下を覗き込むが、当然何もない。  気のせいか。  ノーマンは少しだけがっかりした。もしかしたら、友人が早めに帰宅したのではないかと期待したのだ。  バルコニーに背を向け、テレビをつける。画面から流れる音で、背後の気配に気づかなかった。  パンっと乾いた音が聞こえ、続いて燃えるような痛みが右肩を襲った。 「うっ!」  ノーマンは床に蹲った。痛みからではない。頭を低くし、身を守るためだ。  銃を撃ったのは黒い服の男だった。ソファの裏に隠れながら、この家で武器になりそうなものを必死に思い浮かべる。キッチンに行けば包丁があるはずだ。  ノーマンは頭を低くしたまま、キッチンへ向かって走った。何発か発砲音が聞こえたが、当たってない。  廊下とダイニングを繋ぐ扉から、別の男が現れた。  最悪だ。二対一。  目の前に突然現れた男によって、キッチンへの道は閉ざされた。ダイニングテーブルに頭を叩きつけられ、堪らず床に転がる。耳の奥で不愉快な音が鳴り響く。知覚するすべてのものが遠くに感じる。そのおかげか、頬を二、三発殴られても、麻痺したように何も感じなかった。  仰向けに倒れたまま、ぼんやりと男たちを眺める。どちらも知らない顔だ。しかし、ノーマンには心当たりがなくとも恨みを買っている可能性があった。その大部分は、彼の持つもうひとつの人格のせいだが。  そのとき、玄関のベルが鳴った。騒音についても苦情かもしれない。テレビにもひびが入ったし、皿も割れた。最初に入ってきた男が廊下に出る。これはチャンスかもしれないし、さらなる被害の拡大になるかもしれない。扉の向こうの人物が悲惨なことにならないよう、ノーマンは祈った。 「お前が細工する水道管を間違えたからこんなことに」 「悪かった。せっかく用意した衣装も無駄になったな」  三人目の男はオリーブ色の作業服を着ていた。三対一。玄関での悲劇は免れたが、ノーマンの生存率は著しく下がることになった。  そもそも、彼らはどうしてノーマンを殺さないのだろう。あちらは三人、こちらは怪我をして動けない哀れな老人ひとり。どう考えても有利な状況だ。それなのに、男たちはそれ以上何もしてこない。 「何も起こらない」 「どうやって変わったとわかるんだ」 「もう何発か殴れば」  男たちが何やら話し合っている。その間から、聞き覚えのある声が聞こえた。 【あーあ、代わってやろうか?】  その瞬間、ノーマンは意識を失った。

ノーマンは目を開けた。左手に包丁を持っている。最後に切ったのはサラダ用のレタスだ。そこには赤い血がついていた。足元に男が転がっている。オリーブ色の作業服を着た男だったが、胸の辺りだけ真っ赤に染まっている。ノーマンはソファの裏に立っているらしい。  ゆっくりと部屋を歩き、周りを見る。  フライパンも投げ捨てられている。キッチンに倒れている男は、頭から血を流していた。なるほど、これで思いっきり殴られたらしい。中に入っていたサーモンは、シンクに落ちていた。今晩は焦がさず、うまい具合に焼けたのに。  部屋にいるのはノーマンと、ふたりの見知らぬ男だけだ。 【ひとり逃したか】  ゴブリンは舌打ちした。 「これはお前が?」 【そうだ】 「なんてことを」 【黙れ。あのままだと殺されていた】  ノーマンはため息をついた。 「オットーになんて説明しよう」 【あんなタコ野郎放っておけ】 「お前は後先考えなさすぎる」 【増強剤の効果なしでここまでやってやったんだぞ。まあひとりしか仕留められなかったが】 「ふたりじゃなく?」 【キッチンのやつは気絶しているだけだ。もうひとりは逃しちまったし】  ノーマンはほっと息を吐いたが、慌てて身を固くした。ひとりでも三人でも、殺人は殺人だ。 「警察を呼ばないと」 【警察ぅ?】  ノーマンは受話器を取ったが、あらゆるボタンを押してもまったく反応しない。 【どうやら嵌められたらしい】 「嵌められた?」 【計画的な襲撃ってことだ】  この状況下でも、ゴブリンに焦りは見られない。 【ところで外が騒がしいな】  ノーマンは窓から眼下を覗いた。黒いバンが二台、ビルのそばに止まっている。 「まずい……」  男たちの声が蘇る。なぜ、すぐに殺さなかったのか。彼らは何かを待っていたのだ。それには、ノーマンの身に何かが起こる必要があった。  彼らの目的はこの家にある僅かな金でもノーマンでもなく、危険で醜悪なもうひとりの「彼」だったらしい。つまり、ノーマンにとっては大変腹立たしいことだが、見事相手の思惑に乗せられたことになる。  とにかく逃げなければ。携帯電話は。改めて部屋の惨状を見て、ノーマンは捜索を諦めた。ここで携帯電話のような小さな機械を見つけるには、確実に三十分かかる。財布も同様。  この状況をどうやってオットーに伝えようか。メモを残す。駄目だ、破り捨てられる。その上、同居人がいること、彼がもうすぐ帰ってくることを暗に伝えることになる。時間がない。四本のアームとドクター・オクトパスを信じよう。  胸から血を流し、横たわる男を見て、ノーマンは僅かに胸が痛んだ。彼らは自分たちがただの囮であることを知っていたのだろうか。どうなろうとかまわない存在として扱われていたことを知らないまま、死んでいったのだろうか。 【おい、ボケッとするな】  いつ戻ることができるかわからない。そもそも戻ることができるかどうかもわからない。何か、メッセージを残さないと。メモも駄目、電話も駄目。下から車のドアを開け閉めする音が聞こえる。早くしないと。テレビ台の横にある本棚に目が留まった。今、この部屋で唯一被害を免れている場所だ。ノーマンはその中から、一冊の本を手に取った。 【玄関からは無理だな】  ノーマンはバルコニーに出た。壁に取りつけられた排水管を使い、屋根に登って、そこから隣のビルへ移ることができるかもしれない。 「こういうときは代わってくれないのか」 【高所恐怖症なんだ】  グライダーで飛び回っていたやつが何を言うのか。 「大体、僕が死んだらお前も消えるんだぞ。わかっているのか?」 【俺がいるんだからお前が死ぬなんてありえない】 「適当なことを」  意を決して手すりに登る。眼下を見ないようにしながら、ノーマンは排水管へ手を伸ばした。 【潰れたトマトみたいになりたくなきゃしっかり掴まってろよ】 「頼むから少し静かにしてくれ」  右肩に走った痛みは気づかないようにする。ノーマンには屈強な金属の腕もなければ、糸を出したり壁をよじ登る能力もない。治療のおかげで増強剤の効力も消えた。今の彼はどこにでもいるただの老人だった。しかし、小柄な体格のため腕への負担は少なく、同年齢の男性より体力には自信がある。  なんとか屋上までたどり着き、胸を抑えて呼吸を整えた。 【おい、まだゴールじゃないぞ】 「うるさい。わかっている」  隣のビルにさえ飛び移ることができれば、そこから非常階段を使って出られる。階段と外を隔てる扉は高さも低く、簡単に乗り越えることができるだろう。問題はどうやって隣のビルまで移るかだ。 「ここを飛ぶのか」  ノーマンは目眩がした。いっそこのまま倒れて朝まで眠っていたい。 【向こうのビルのほうが低い。簡単だな】 「そうだな。失敗すれば潰れたトマトみたいになるが」  ビルとビルとの隙間は、大した距離ではない。軽く助走をつければ、簡単に飛び越えることができるだろう。落ちれば死ぬ、ということさえ考えなければ。  ノーマンはできる限りうしろへ下がった。走る、飛ぶ、着地する。簡単だ。これまでの人生でも何度か経験してきた動きだ。大丈夫。なんてことはない。  足を動かす。あっという間にビルの反対側へたどり着いてしまった。地面を蹴る。少し早かったか。もっと手前で飛べばよかったかもしれない。今更遅い。コンクリートの地面が近づいてくる。  足に衝撃が走る。勢いを殺すことができず、ノーマンは前のめりになった。よりによって右肩からコンクリートに倒れ込む。激痛。何か巻いておけばよかったと後悔する。 【ほらほら、寝てる暇はないぞ。早く立て】  言われなくてもわかっている。ノーマンはふらふらと立ち上がると、非常階段に向かって歩き出した。階段を下り、扉を乗り越える。ようやく外に出ることができた。  気が抜けたせいか、猛烈な疲労感に襲われる。膝から力が抜け、ノーマンは地面に蹲った。 【おい、寝るなよ。まだ終わってないぞ】 「わかって、る」  今更だが、自分の体の状態を確認する。幸いなことに、撃たれた右肩は弾が貫通していた。頬が腫れている。額に手をやると、べっとりと血がついた。ノーマンはそれをナイトガウンで乱暴に拭う。  ガウンが赤いことも幸いだった。こんな夜中に血まみれの老人がひとり彷徨っていれば、誰でも怪しいと思う。  顔の傷を見られないように下を向き、大通りに出る。ひとはまばらで、ノーマンのことなど誰も見向きもしない。  パトカーが何台か、目の前を通り過ぎていく。あれはオットーが向かった方角と同じだ。彼は無事だろうか。怪我はないだろうか。帰ってきて部屋の惨状を見たら、とても悲しむだろう。 【どうでもいいだろ、あんなやつ】 「勝手に頭の中を覗くな」 【知りたくなくても勝手に入ってくるんだよ。お前がピーチクパーチクうるさいから!】  ゴブリンはつまらなそうに鼻を鳴らす。 【ダーリンはこんなにぼろぼろふらふらで今にも死にそうだってのに、タコ野郎は蜘蛛の坊やと仲良くヒーローごっこか。お気楽なもんだ。なあ、あんなやつより俺のほうがよっぽどお前のためになっただろう? 命も助けてやったんだ。お前に必要なのは俺だけだ、ノーマン。あいつがいなくたって、俺たちだけでうまくやれるさ】  ノーマンは瞬きを繰り返した。街灯の光が滲んで見える。頭を強く打ったせいかもしれない。 「彼は、彼らは自分ができることをしているんだ」  右肩から噴き出した血がナイトガウンを伝い、靴下の中まで濡らしている。だが、もう気にならなかった。 「だから僕も自分ができることをするだけだ」

ルームメイトの金髪は、遠くからでもよくわかる。たとえ今が夜だとしても、街灯の光を反射し、きらきらと輝いて見えた。 「やっぱりここにいた」  ノーマンは驚いたように振り返った。いつもの明るさはなく、青い瞳が静かに揺れていた。 「おじさんたちと何かあった?」 「うん。成績のことでいろいろ。仕方ないよな、金も出してもらってるし」  オットーはこのような姿の友人を見ているのが辛かった。同時に、愛おしさも感じた。自信たっぷりで、社交的で、みんなの中心にいるノーマンだが、他人に弱っているところを見せようとはしない。彼にとって唯一の存在になれたような気がした。 「オットーは夏休みどうだった? 家族と過ごせた?」 「うん。ずっとのんびりしてたよ。あっという間だったな。授業とか課題のことを考えるともう少しこのままでいいのにって思ったよ」 「いいな。羨ましい」  オットーは自分の発言を後悔した。友人の横顔に影が差す。 「僕は早く休みが終わらないかなって願ってたよ。君には悪いけどね。家にも結局一週間しかいなかった。あとは課題があるからって別荘にこもってたんだ。大学院も、今のままじゃ行っても仕方ないって」 「ごめんよ、ノーマン」 「ううん。違うんだ。僕のほうこそごめん。そうじゃなくて……、ただ僕は話を聞いてほしかっただけなのかも」 「だったら部屋で聞いてあげたのに」 「僕が部屋でめそめそしてたら、君も気が散って宿題がはかどらないだろ? まあ、結局探させてしまったけど」  再び黙り込んでしまった友人を見て、オットーは胸が痛んだ。なんとかして、彼を勇気づける方法はないだろうか。  何かあるはずだとバックの中を探る。寮の部屋の鍵、ノート、筆記用具、教科書、そして一冊の詩集。 「If you do not push the boundaries, you will never know where they are.(挑戦しなければ、限界がどこにあるのかわからない)」  ノーマンは目をぱちりと瞬かせた。 「つまり、やってみないとわからないってことさ。実は僕も成績のことで悩んでいてね。ロージーからこの言葉をもらったんだ。T・S・エリオットだって。詩集も借りたよ」 「君が詩を読むなんて」  にやっと笑う友人の顔は、先程より赤みが増している。よかった。少しは元気になったようだ。 「まだ卒業まで二年もある。もしおじさんたちを説得できなかったら、働いて学費を稼ぎながら大学院に行ってもいい。ここで諦めるなんてもったいないよ」 「……そうだな。ありがとう」 「どういたしまして」 「僕はこんなに素敵な詩を紹介してくれた君のガールフレンドにお礼を言ってるんだけど」  ふたりは声を潜めて笑った。

石畳の遊歩道は、川沿いに沿って伸びている。脇にはベンチもあった。しかし、ひとの気配がまったくない。夜中とはいえ、酔っ払いやひとめを偲んで密会するカップルがいてもおかしくないが、水の流れる音しか聞こえない。 「外れにあるから誰も気づかないんだよ」  オットーは慣れたように先へ進んでいく。 「手入れもしてないのがわかるだろう」 「本当だ」  遊歩道の脇には草が生い茂り、ベンチにまで侵食する勢いだ。 「おかげで逃げ込むには適した場所だ」 「なるほど。でもどうして本を見てこの場所がわかったんですか」  ピーターの疑問はもっともである。オットーは少しだけ口の端を上げた。 「ここはノーマンの避難場所だった」  アームが何かに反応した。驚異となるものではないと、彼らの様子からわかった。橋の下に人影が見える。  オットーは走り出した。

手足の感覚がない。ノーマンはナイトガウンの裾を引っ張った。寒くてたまらなかった。 【本当にあのタコはここがわかるのか?】 「恐らく」 【『恐らく』だぁ? もし来なかったらどうするんだよ。明日の朝には俺たち冷たくなってるぞ】  ノーマンは苦笑した。日頃は鬱陶しい存在だが、こういうときはありがたい。ノーマンひとりでは気が狂っていただろう。もうひとりの自分との会話のおかげで、寒さと痛みと疲労を紛らわせることができる。  突然、ゴブリンが辺りを警戒し始めた。微かだが、足音が聞こえる。その中に、金属がぶつかるような音が混じっていた。 【遅すぎるぜ、ハニー】  オットーはサングラスを取り、屈んでノーマンと目線を合わせた。 「部屋、見たか?」 「ああ」 「テレビが壊れた」 「ああ」 「それから、ソファのうしろの」 「見たよ」 「あとディナーもめちゃくちゃになった」 「そうだな」  温かい腕がノーマンを抱き寄せた。嗅ぎ慣れた匂いに包まれ、ようやく体から力が抜けた。  オットーに隠れて気づかなかったが、うしろにはピーターの姿もある。 「迷惑をかけて悪かったね」  ノーマンは友人の肩を借り、立ち上がった。 「ところで今夜のことは息子に黙っててくれないか。また泣かせてしまうと申し訳ない」  青年は笑って頷いた。

とあるアパートの一室で強盗が押し入り、犯人のうちひとりが死亡した事件は、誰もが見落としてしまうほど小さな記事になった。アパートの住人は正当防衛のため起訴を免れた。他の事件や事故と同じように、みんなの記憶から消えていくだろう。  実に魅力的なサンプルだ。この研究から手を引いてしまうなんて、オズボーンは愚かだ。何百、何千という大金を生み出すことは間違いない。  残念なことに、サンプルはひとつだけ。研究データはない。すべてオズコープが処分した。残るは被験者のみ。またチャンスは巡ってくる。  突然、窓ガラスが割れた。吹き荒れる風の中から、赤いコスチュームの男が現れる。 「やあ」  随分声が若い、と思っているうちに、手首から吐き出された糸によって、武器はすべて没収された。  ニューヨークで彼を知らぬ者はいない。不思議な能力を使い、夜な夜な飛び回る奇っ怪な男。引き出しの銃に手を伸ばすが、また糸に阻まれた。 「まあまあ、ちょっと落ち着いて」  この状況で落ち着いていられる人間などいるわけがないが、男はのんびりと言った。 「今夜君たちに用があるのは僕じゃない。僕はただ手伝いに来ただけだ」  ビル全体が揺れているような衝撃が走る。何かが猛烈なスピードで駆け上がってきているようだ。  窓から銀色の蛇が現れた。いや、蛇ではない。腕だ。その腕がゆっくりと男を引き上げる。  多分、悪魔がいるとすれば、それは六本の腕を持っている。