パパに似ていると言われてぶちぎれるシャーリンと巻き込まれただけのかわいそうなレーザー・フィストくん。
どろり、と粘ついた何かが鼻から零れた。乱暴に拭うと、手の甲にべっとりと血がついている。 顔を上げると、燃えるふたつの目があった。彼女は常時不機嫌そうな顔をしているが、それでもここまで怒りに満ちた顔は初めて見た。レーザー・フィストは息を呑んだ。 彼女は何事か中国語で喚いたが、生憎彼には早過ぎて聞き取ることができない。レーザー・フィストは彼女の父親のことを思い出していた。彼は異国から来た部下を気遣い、ゆっくりと、染み渡るような低い声で語りかけた。 この騒ぎを作った男は、レーザー・フィストの背後で真っ青になっている。仕事も軌道に乗り、気が緩んでいたらしい。古株のひとりだった男は、笑いながらたった一言、こう言った。 「あなたは父親に似ている」 そこで激昂した現テン・リングスのボス、シュー・シャーリンに掴みかかられ、慌てて止めようとしたレーザー・フィストが巻き込まれたわけである。
「男前が上がったねえ」 へらへらと近づいてきたのは、シャーリンが連れてきた妙な髪の色の男だった。 ジャン・ジャン。確かそう名乗っていた。軽薄そうな雰囲気の男で、絶対に気が合わない。 「ボスの蹴りを食らって立ってられるなんて、さっすがあ」 「うるさい」 「あんたも試合に出ればいいのに。きっといちばん人気になれるよ」 笑ってはいるが、何かのタイミングを伺っているように、視線は外れない。 「ウサギの目は360度見ることができるってさ」 「は?」 「人間は真正面についてるから、残念だよなあ」 まったく意味がわからないが、特に答えもヒントも与えずに、ジャン・ジャンは行ってしまった。やはりあの男とは気が合わないと思う。
「ボス」 レーザー・フィストは扉を控えめに叩いた。父親の寝室のほうが広いのに、シャーリンはそこを使おうとしない。幼い頃から過ごしてきた部屋で寝起きしている。 「なに?」 扉を開けたシャーリンは、いつものように眉を寄せていたが、そこにはもう怒りの感情はなかった。だからこそ、レーザー・フィストは言葉に詰まった。 そういえば、なぜ自分はここに来てしまったのだろう。あの怒りの理由を尋ねたかったのか、暴力沙汰に発展させたことを咎めたかったのか、あるいは単に慰めたかったのか。 黙ったままの部下に業を煮やしたのか、先に口を開いたのはシャーリンだった。 「とりあえず中に入ったら?」 「いいのか」 「ここに突っ立ってたって何もできないし」 彼女の部屋はこれまでにも何度か通ったが、中に入るのは初めてだった。ベッドと、机の上には色鉛筆やスケッチブック、びっしりと壁に貼られたスクラップ、日の当たらない部屋を彩る絵、色あせたクッションに古いぬいぐるみがいくつか。彼女が好きなものを懸命に詰め込んだ部屋だった。 思えばこの屋敷は元々、「娘」がいる痕跡などなかった。あとになってウェンウーから話を聞いたときは、大層驚いたものだ。 徹底的に隠され、抑え込まれている分、この部屋は濃厚な薫りに満ちている。それは紛れものなく目の前の女が、ここで育った証拠だった。 「趣味が悪いって言いたい?」 「いや、いい部屋だと思って」 レーザー・フィストは素直な感想を述べただけだったが、なぜかシャーリンは噴き出した。 「おもしろいね」 こうしてみると、彼女が巨大組織のボスとは思えない。肩まで揃えた髪が柔らかく揺れる。 「お前はここに来てもいいよ」 「ほんとうに?」 「うん」 どうやら気に入ってもらえたらしい。理由はわからない。何か彼女なりの考えやルールがあるのかもしれないし、あるいはただの気まぐれかもしれない。その規則性は、少なくとも今のレーザー・フィストには見つけられそうになかった。 新しい主は、正直楽な相手ではない。抱える事情も複雑で、そもそもここへ来るまでにも紆余曲折あった。まだ踏み込む場所を模索しているが、こうやって必死に手探りで言葉を探して、ジタバタするのも悪くないかもしれない。そうやって足掻く余地を与えられている間は、きっと程々に幸せなのだろう。 「それから私に殴られそうになったやつは」 「まだしょげている」 「なら、あとでちゃんと話をしに行く」 思ったよりもスムーズに事が運んだ。だが、このまま彼女を行かせてよいのだろうか。もう少し足掻くべきなんじゃないだろうか。 「あのひとは絵を描かなかった」 シャーリンが大きく目を見開く。 「だからそこまで似てない、とは思う」 「そう」 睫毛が長く影を落とすその横顔は、確かに彼女だけのものだった。