バリビク未満。

スピードフォースの力を操るバリー・アレンにとって、遅刻などこれまで無縁のものであった。しかし、今日は違う。  現在、9時55分。あと5分で待ち合わせに指定した10時である。 「おかしくない、よね?」  バリーは鏡の前で何度も自身の姿を確認した。足元には大量に脱ぎ捨てられた衣服が皺を作っている。 「ちょっとカジュアルすぎ?」  お気に入りのスウェットを脱ぎ、深い紺色のジャケットに替える。 「これはフォーマルすぎかな?」  うんうん頭を悩ませている間に9時57分。 「やばい!」  結局いつものパーカーを掴み、荷物をまとめ、明かりを消し、鍵を閉め、あと2分……、1分……。 「おまたせ」  きっかり10時。ビクター・ストーンはすでにいた。深く被ったフードから瞳を覗かせ、バリーの到着を確認する。 「待った?」 「いいや、俺も今着いたとこだ」  嘘だ。真面目なビクターのことだから多分5分、いや10分前にはここにいたはずだ。  友人の気遣いは嬉しいが、おかげで自分の不甲斐なさをより強く感じる。バリーは肩を落とした。  折角新しくできた友達と出かけるのに。  バリーはこれまで遅刻とは無縁の生活を送ってきたが、それはスピードフォースの力だけでなく、そもそも誰かと待ち合わせをするという機会がなかったのだ。バリーにとって初めての体験である。だから昨夜は早く寝て、顔を洗って、歯を磨いて、朝ご飯もしっかり食べてきて、十分に準備したはずなのに。 「何落ち込んでるんだ」  バリーの胸の内を知ってか知らずか、ビクターは普段の彼にしては明るい声で言った。 「映画は10時半からだろ? 早く行かないと」  そうだった。このためにバリーは来たのだ。  バットケイブに閉じ籠って1日中機械を弄るか、ネット検索を行うか、ブルースと難しい話をしているビクターのために、バリーは彼を外へ誘った。映画館なら室内で暗く、みんな大画面に釘付けになっている。誰もビクターの金属の体や光る赤い目に気づきはしないだろう。それに映画はバリーの趣味のひとつでもある。普通の人間よりは詳しいし、どういうものなら友人と盛り上がるか、きちんと心得ているつもりだ。 「そうだった! 早くチケットを取らないと」 「ああ」 「そのあとはピザを食べて……、人気店だから終わったらダッシュしよう! 少し待つかもしれないけど君と一緒に並ぶなら全然平気!」 「バリー、前を見て歩け」 「どうしよう、ビクター! 友達と映画なんて初めてだから、僕楽しみで仕方ないよ‼」  ビクターの手を引いいてバリーは歩く。握り返される力の強さが、彼には嬉しくてたまらなかった。

「まさかあの人が黒幕だったとはね。味方だと思っていたのに騙されたよ! 君は気づいてた? ああ、あの場面ね。確かに怪しかったけどさぁ。あ、あ、それからそれからやっぱり最後のシーンが肩透かしっていうか、でも面白かったけどもっと派手でもよかったかな。あ、そういえばヒロインの女の子って……」  ここでバリーは言葉を切った。向かいに座るビクターは、冷めたピザに手を付けることなく黙って話を聞いている。またやってしまった。 「ご、ごめん。僕話始めると止まらなくて」 「べつに、構わない」  ストローで飲み物を一口吸い込み、ビクターは続けた。 「俺は楽しいよ」 「本当に? 僕の話が?」 「ああ。それにたくさん話せるってことはそれだけ好きなんだろ?」  母親を亡くし、父親と引き離されたバリーにとって、文字や画面の中の世界は数少ない安らぎの場だった。辛い現実から解放され、少しの間だけでも忘れることができた。 「うん……ずっとひとりで映画見たり本読んだりしてたから。僕、友達いないし」 「俺だってアメフトのことになるとつい熱くなるし話が止まらなくなる」  ビクターは肩を竦めて悪戯っぽく笑う。バリーもつられて笑った。この心優しい友人はいつだってバリーを励ましてくれる。いい友達だ。自分には勿体ないと思ってしまうくらいに。 「ところでピザはもういいのか。すっかり冷めてるぞ」 「ああうん、そうだね。ビクターはお腹一杯なの?」 「俺はこの体になってあんまり食べなくなったから」  バリーが次々と胃にピザを放り込む間、ビクターは何も言わず、友人の空腹が満たされるのを待った。

「美味しかった!」  バリーは満足気に膨らんだ腹を擦る。 「どうしよっか? まだ時間はあるしどこか寄る? ここら辺って遊べるとこあったっけ」 「バリー」  ぐっと手を引かれ、固い胸に引き寄せられる。そのときバリーの僅か数センチ先を車が走り抜けた。話に夢中になると周りが見えなくなるのは、彼の悪い癖だ。 「前見て歩けって言っただろ」 「う、うん。ありがと」  冷たい金属の腕はしっかりとバリーの体重を支える。見上げるとすぐ近くに整った顔。急に照れ臭くなって、バリーは視線を逸らした。 「今の車すごいスピードだったね! 危ないなあ」  直後、クラクションが鳴り響く。バリーはほとんど無意識の内にスピードフォースの次元へリンクした。ビクターの腕をすり抜けて走る。先程の車が横転し、歩道へ乗り上げている。逃げ惑う人々、状況がまだわかっていない歩行者、目を瞑り死を覚悟する運転手。バリーはまず、運転手を車内から引き摺りだし、歩道にいる人間たちを避難させる。彼にとって長く十分な時間でも、他の人々にとっては一瞬である。最後のひとりである幼い少女を移動させ、彼女を背後に庇い、バリーは微笑む。 「もう大丈夫」  爆発音とともに車が炎上する。人々は何が起こったのか把握できず、呆然とするばかりだった。そうしている間にも火の勢いは強まり、辺りに充満するガソリンの匂いが、最悪の状況であることを知らせる。 「あー……ちょっとやばいかも」  慌てて少女の手を引くのより先に、銀色の影が飛び出した。二度目の爆発音が響き渡る。 「ビクター!」  影の正体は道に置いてきた友人だった。騒ぎを聞きつけ、爆風の盾となってくれたらしい。安心したのも束の間、ビクターの姿を確認した場合バリーは悲鳴を上げた。 「ビクター! 腕腕! 右の!」 「腕?」 「ない! 腕がなくなってる!」 「あ、本当だ」  わあわあと騒ぐバリーよそに、当の本人はさして気にしていない様子だった。 「べつにいいよ。痛くないし、またすぐにくっつくから」 「ほんと?」 「ああ。それよりギャラリーが増えてきたな」  フードは黒く焼け、ビクターの金属に浸食された顔面が露になる。周りの人間たちもただごとではないと集まってきていた。 「ここはなんとか収めておくから、先に帰ってろ」 「でも……」 「正体が知られたらまずいだろ? 俺はどうせばれてるから」  バリーは人混みを掻き分け、現場を離れる。振り向くと人だかりはさらに大きくなっていて、その中心に友人がいるのだと思うと、足がそちらへ向いてしまいそうだった。

「取り敢えず現場にはクラークが向かっている。彼の説得ですぐ帰してもらえることになった。元々市民を助けようとしただけだからな。そう落ち込むな。誰のせいでもない。ただの事故だ」  傷心のバリーに、ブルースが慰めの言葉をかける。バリーは笑顔で答えようとしたが、頭の中は先日のことでいっぱいだった。  ビクターは最高の友人だと思う。頭がよくて、かっこよくて男らしくて、それに優しい。何度もバリーを助けてくれた。それなのに、自分は彼に何ができただろう。 (僕はビクターの友人失格なのかも)  ビクターはケイブの車庫にいるという。兎に角会って、この間のお礼を言おう。

探し人は作業台の上に何かを載せ、熱心に手を動かしていた。バリーが近づくと、気配を感じたのかビクターは顔を上げた。 「これ、あのとき取れた腕?」  作業台には金属の義手が載っていた。これを修理していたらしい。 「こっちだと道具も揃っているから捗ると思って」 「手伝いえること、ある?」 「じゃあこっちのほう持っててくれ」  ふたりで手分けして、腕を治していく。最後に体と腕を繋ぐと、ビクターは何度も手を握り、感触を確かめる。 「どう?」 「完璧」  ビクターの体がソファに沈む。心なしか疲れ切っているようにも見えた。 「大丈夫? 気分悪いとか、やっぱ合わなかったとか?」 「違う。徹夜で治していたのもあるけど、取れたところを元に戻すとなぜかぼうっとするんだ。神経を繋いでいるからかもしれない……アップデートのときもそうだけど……」  バリーも友人の隣に腰掛けた。ビクターはぼんやりと宙を見つめている。いつものしっかりした頼れる青年はそこにいない。代わりに今の彼はどこか心許なく、危なげな雰囲気を纏っている。  なんとも言えない思いが、バリーの胸の中に迫り上がってくる。かわいい、愛おしい、そして守りたい。彼を守りたい。自分の前でだけ弱さを見せてほしい。 「僕が傍にいるから、眠ってていいよ」 「うん。……バリー」  銀色に光る手がバリーの掌を握る。 「また遊びに行ってくれるか?」  返事をする代わりに、バリーは手を握り返す。